辛島靖博君の葬儀:弔辞 | ||||||||
辛島靖博君 君を見舞い、その病が決して軽いものでないのを知り、私なりに覚悟をしていたのだけれど、奥様から君の訃報を知らされた時、どんなに覚悟していても残念で悲しくて辛い気持ちは抑えようがありませんでした、まさに断腸の思いです。 でも自宅に眠る安らかな君の顔を見て、あのつらく苦しい呼吸から解放されたんだ、今はもう苦しくないんだ、と自分に言い聞かせました。 思い起こせば五十年余も前、防衛大学校の同じ部屋で生活したときから長いお付き合いが始まりました。 君はアメリカンフットボールの頭脳、クォーターバックとして活躍、学業も、私など理解に苦しむ難しい自動制御の方程式をいとも簡単に解き明かす、文武両道の優秀学生だった。 防大卒業のあと、宇佐市の君の実家に三日も泊めてもらい、一緒に幹部候補生学校の門をくぐったのも忘れられない思い出です。 卒業後、福岡と北海道に分かれ別れになったけれど、君は三年あまりで語学のスペシャリストに選抜され東京に、そのとき私の結婚式に参加してくれたんだよね、うれしかったよ。 その後君は、自衛隊のエリートコースより、更に自分を生かし社会に貢献できるシビリアンとしての人生を選択、一級建築士の資格を持つ中堅幹部として、大成プレハブで活躍、マレーシアの海外勤務などを経てキャリアを終えました。 第二の人生は、町内会長として、ソフトボール、お祭りや焼き芋イベント、小学校支援など地域の皆さんとの絆を大切にし、奥様と共に地域貢献に活躍する姿は、定年後人生の見本と思っています。 四十年続く年一度の防大六班会には毎年のように参加してくれた他、三年ほど前から洞澤や中村とゴルフを再開、とても楽しかったけど、ラウンドを終えたあと、お風呂で見た君の極端に痩せた姿に病魔の影を感じ、不吉な思いを募らせました。 おととしの十二月からゴルフを休み、今度こそ春になったら楽しくやろうよと言っていたのに・・君の肺はもう限界を超えてしまったんだね。 苦しみを乗り越えて浄土に行かれる辛島君、後のことは立派な奥様とお二人のお嬢さんご家族に任せ、君はゆっくりと休んで下さい。 かつて君と一緒に六班の仲間の霊前で肩を組んで歌い送った「防衛大学校逍遙歌」を、今、祭壇に眠る君に捧げます。 先に浄土で待っている、菊池、ヨッチ、達ちゃん、平野、片桐、作道と一緒にこの歌を歌って、あの世の青春を謳歌してください。
|
||||||||
辛島靖博君の葬儀に参列して | ||||||||
6班各位 2月8日に亡くなった辛島君の葬儀が14日、15日に執り行われ、「防衛大学校機械6班」として生花を飾りました。(アメフットの同期生からも生花) 辛島君が亡くなる前から葬儀にかけて近所在住のアメフット同期の洞澤君が何かと面倒見てくれ、私が同期生や友達関係の連絡に当たりました。 14日の通夜には15日参加できなくなった石川が予定外の参加があり、石川、庄司、山田、元場、清水に内村の6名が参加、 庄司、清水、山田が受付をしてくれました。 通夜の参加者は辛島が活躍した町内会や小学校の関係者を含め約300名の盛大な通夜式になりました。 6班以外の同期生は、宇佐高校同級生の7班永松君、3班田中君とアメフットの洞澤、冨士、中村の3君が参列してくれました。 15日の告別式は町内会や小学校関係者が来られないため、70〜80名の参加者でした、アメフット部から洞澤、冨士が参加してます。 6班からは庄司、山田と玉井が受付をしてくれ、伊藤順考が逍遙歌合唱隊のリーダーで参加してくれました。 告別式の弔辞(上記)は内村が担当し、弔辞に引き続き逍遙歌を伊藤リーダー指揮の下、大きな声で歌い辛島君を送りました。 火葬場には山田、伊藤、内村とアメフットの洞澤、冨士の5人が行き、最後のお別れをしたのでした。 しみじみ感じたけど、6班は29名中7名の物故者を出しています、同期では職種機甲と6班がダントツに多いです。 もう、これ以上物故者のペースをあげたくない、是非体調管理に気を付けて、この世の楽しみを味わってほしい。 寒さももう少しで過ぎるでしょう。 明るい春を迎えてください。 内村 彰和 (6班の仲間に送った連絡を快諾を得て、掲載しました。) |