〈作道君のお別れ会〉
 
 2016年5月12日(木)1100〜1300の間、東京乃木坂にある青山葬儀所で故作道光夫君のお別れ会が行われた。
 
 作道君は入院闘病中のところ3月24日に御逝去され地元松山で葬儀が行われたが、その死を悼みお別れをしたい友人が多数あることから、最後の職場であった弘済企業株式会社が中心となって今回のお別れ会が実現した。



 当日は我々の思いが通じたのかはた、作道君がお別れに来た我々を歓迎してくれたのか、見事なまでに澄み切った青空の五月晴れで葬儀所の庭の木々も輝いて見えた。

   式の始まる11時近くには多くの知人友人が集い、式場に入りきれず我々は別室のモニタで式の進行を見ることになった。



 作道君は現役時代に陸幕広報班長を勤められ、、弘済企業株式会社の会長であったことから企業関係者との付き合いも多くお別れの挨拶は保険会社社長の言葉で始まり、次に陸幕時代の上司だった西本氏、トリに自衛隊関係者、防大関係者、11期同期を代表して中村浩三郎君がお別れの言葉を述べたが、友としての心情あふれる素晴らしいスピーチで私をはじめ、参加者の胸を打った。

   この後の話で初めて知ったのだが、作道君との付き合いは初級幹部としての部隊赴任から始まり結婚もほぼ同時期、官舎に入れず民間の住居の1階と2階に住んで台所も風呂も共有という文字通り家族ぐるみの付き合いだったと聞く。

 その後防大指導官、陸幕勤務、再び防大勤務、そして最後に弘済企業株式会社で一緒の仕事と防大卒業後、これほど多く同じ場所の勤務をした関係は珍しいと思う。

 中村君は作道君を一番良く知る人としてお別れの言葉をの贈るに最適だった。

 因みに前のお二方が文面を読み上げたのに対し、中村君は文面を用意せず、すべて自分の言葉でのスピーチだったのには驚かされたし、立派だった。


    作道君はその飾らぬ人柄と初対面の人でもいつの間にか引き込む人間的魅力と大きさがあったと思う。


 3人の方のお別れの言葉のなかにもそれが感じられた。


 個人的には同じ勤務はないが、幹部候補生学校1候2区隊で高良山や各種訓練を共にした。中でも銃剣道の昇段審査ではさすが剣道の猛者、道場の中を走り回り圧倒的な気迫を示したことにより段を飛び越えて1人だけ3段の免状を与えらえたことは今でも目に焼き付いている。

 
 沖縄研修では酒豪の彼が知らずに琉球泡盛をがぶ飲みして、参った、泡盛は強いと言ったが、そのギャップが彼の魅力だった様に思える。
 総会であった時も挨拶に行くとおー元気でやっとるかと笑顔で迎えてくれるその快活な笑顔が忘れられない。
 彼にも色々苦労はあったと思うが、防大卒業生かくあるべしという理想的な立派な人生を送ったとのではと思う。

 そうこうするうちに時間がたち、ご遺族、先輩諸氏、会社関係者に引き続き我々もお別れの時が来た。
 5人の列で渡された白菊をたむけ遺影に一礼して別れを惜しんだ。
 遺影は勲章を胸に男らしくとてもハンサムだった。

   お別れを終わって、別室で心ずくしの寿司をつまみ、ビールで献杯してしばし作道君の思い出に花が咲いた。


 今日の参加者は勘定はしていないがおそらく300人は優に超えると思う。
 これだけ大勢の人が何らかの形で作道君と知り合い、その知遇を得たことに感謝してお別れ会に足を運んでくれるのだから幸せ者だ。



 彼は同期の星。
 その星は天上に上ってきっと残された我々同期のいく末を見守ってくれるだろう。

 
 願わくはその時が来たらまた若かりし頃の思い出を肴に酒を酌み交わしたいものだ。
 不出来な私などは天上への階段をはずされるだろうから、その時はあの太い逞しい腕で引っ張り上げてもらいたいとたわいのないことを思いながら会場を後にした。

 本当に良いお別れ会だった。
 平成28年5月19日 田中 征之 記