会員の動向 |
須藤 八束君のご逝去を悼んで | 鷺岡 勝義 | ||||||
自衛隊キャリアの大部分を戦車の開発に捧げた須藤君が鬼籍に編入されました。 ![]() 茨城大学工学部出身の須藤君は、67期U課程に幹部候補生として久留米に入校しました。温厚でアカデミックな雰囲気の中にも、高良台の戦闘訓練では、進んで水たまりに飛び込む勇猛さも合わせ持ち合わせていたようです。 (幹部候補生学校の思い出:渡邊 光啓君:下記) 防大研究科では特殊車両講座を専攻し、途中、先生がいなくなるという環境の中「戦車走行理論」をほぼ独学で、完成しました。 研究科卒業後は、その経歴の大部分を技術研究本部第3研究室、第4研究所において、90戦車、10戦車の開発、技術試験、要素研究等に心血を注いできました。 開発に関わる間、彼はよく「男のロマン」という言葉を口にしたようですが、この言葉には、「次世代主力装備たる戦車を世界に冠たる装備に」という思いを込め、また、「俺は、開発の世界をわき目も振らずに突き進む」という思いが込められていたのではないかと思われます。誰もが、早々とTACを卒業して開発の路をと思っていましたが、これも須藤君の「男のロマン」だったような気がします。 武器科職種においては、初級幹部の時期からUとBの連携役を自任し、温厚な人柄をもって同期の中心的人物でした。 ![]() 須藤君の思い出の一つに、武器学校勤務中、技本の同期生が、土浦へ技術試験等でよく出張してきていましたが、いつもそのグループの中心に須藤君がいて、技術試験の話、戦車開発の話などを熱心にしていたのを思い出しますが、UとBが防大研というつながりだけで深い信頼関係を築けるのは、須藤君の開発に関する造詣の深さと人柄の賜物だと感じ入った記憶があります。 現役時代から、健康食品や健康体操等健康お宅気味だった須藤君が、71歳で逝ってしまったのは、何とも皮肉ですが、最後のころは、癌を患い、心筋梗塞が直接の原因と聞いています。 葬儀の式場の入り口には、心血を注いだ90戦車と10戦車の写真並びに第2の人生終了後、地元の人々と交流を深めた「パークゴルフ」のスティックとボールが飾られていました。おそらく、彼の思いを込めた遺言だったのでは・・・。 須藤 八束君のご冥福をお祈りします。 合掌 |
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故須藤 八束君の幹部候補生時代の思い出 | 渡邉 光啓 | ||||||
先ずは私事の話になり恐縮ですが1967年3月末、陸幕から送付された幹部候補生用パンフレット(表紙が真っ赤で金色の桜の座金を大きく写し、青春の光ゆたかに、緑なす筑紫の野辺よ。南風の武勲たたえて、筑後川今日も悠々。紅に背振を染めし、夕日に向かいて立てばの校歌や任官後の目標、夢がコンパクトに記載してあった)の写真や文面を思い浮かべながら夢と期待と不安とが入り混じる中、付教官の出迎えを受けて幹部候補生学校第2候補生隊の正面玄関をくぐりました。須藤八束君は技術幹部予定者ということで私よりは遥かに高い目標と強い決意を持って着校されたものと推測致しております。 着校後、書類記入や生活、訓練、勉強に必要な物品受領等が終わり、区隊毎に集まり区隊長、付教官、付陸曹、各候補生の自己紹介等が行われましたがこの場で水戸一高・茨城大工学部出身、技術幹部要員ということで須藤君を知りました。大変、落ち着いて要点説明をしたのを憶えています。 起床後の起居動作や、座学、基本訓練、組訓練等への取り組み姿勢は陸自の立派な技術幹部になるのだという強い意気込みが随所に感じられ、区隊の先頭で行動し、教官等への質問も積極的に行っていました。 自衛隊に関する知識や体験は少ないにも関わらず理解と習得力は抜群でポイントを押さえることに秀でていたと思います。夜の自習時間でも復習後、翌日の課目のポイントを予習していたし、知識や技術が不十分で時間的にも余裕のない我々が彼に質問すると面倒くさがらずに、わかりやすく教えてくれていました。 課業外においても高良山への駆け足には積極的に同僚を誘って皆を励ましながら先頭になってがんばっていましたし、休み日に外出する場合でも皆を誘って久留米や福岡市内で英気を養い、交友関係も深め又、名所史跡も訪れ知識等の研鑽に努めていました。 これらの立派な技術幹部になろうとする心構えや勉学態度等は十分に蓄積され、卒業時の大野原卒業演習においては成績優秀者として小隊長に指名され、その任務を的確にこなしました。 卒業式においては成績最優秀者として学校長より表彰の名誉に授かり、陸自の技術幹部の将来を担う一人として期待をされ勇躍、新任地に赴任をされました。 総じて言えば悪いところの無い(見えない)知力、気力、徳力、体力、社会性力に優れた総合的優秀者であったと思います。 早すぎたご逝去で誠に無念、残念ですが天上の地で再びご活躍を願いたいと思います。 |