26年度同期生会連合会総会出席報告並びに福島原発汚染地域のその後の状況報告 | ||||||||
谷口 日出男 | ||||||||
ここ20数年来この総会に毎年欠かさず出席している古賀君が、今年はその後の福島の原発汚染状況視察のために不在するので、幹部候補生学校創立記念日に合わせて開催された総会に、命により小生が初めてこの会に出席させられましたのでその模様を同期生の皆様に報告します。なお記念日当日は、吉田君が42期UB代表で出席しました。 幹部候補生学校は今年で61周年、去年が節目の年でしたので今年は例年の通りの行事だそうです。全国各地のどこでもこの創立記念日、毎年巡ってくるものでかって部隊長をやらされていたとき、その行事一般の諸活動にややうんざり?し、今年は何にもやらないくらいに、ごく質素にと方針を出したところ、あちこちから突き上げがあって結局はいつもの通りの記念行事になったのを思い出します。いま後悔すれば?偏屈もののたわ言でした。 同期生連合会総会は、記念日の前日4月18日(土)の15時から行われました。まずは礎の碑前での追悼式そのあと、新しい教場での連合会総会そして最後は、大食堂の中央付近を間仕切りしてのささやかな懇親会の3本立てでした。
追悼式、われわれの頃にはなかった図書館前の礎の碑で、入校したばかりの候補生諸官それに学校職員をはじめ、連合会総会出席のOB(リタイヤ組&現役組)それに色を添えて?偕行会代表者数名が参列し、隣の4FA音楽隊支援のもと厳粛に執り行われました。 この3月着任した大庭学校長(86B)の弔辞によると、開校以来の卒業生約5万6千名、そして訓練やその他の公務で殉職された御柱は、148柱だそうです。去年のこの42HPでの古賀君の報告によれば同じく148柱、昨今の自衛官を戦地に行かすなというマスコミの集団安全保障に関する報道を見れば、今年は誰も居なかったということでこれまた喜ばしいことです。整列している平成の5,6年ごろの生まれの候補生諸官は、どんな思いだろうかなと思い、横目で彼らを見ると瞬きもせずに直立しての不動の姿勢を見て、頼もしく感じました。 ![]() この追悼式で儀じょう隊の弔銃がありました。儀じょう隊長の号令のもと、3回の弔銃射撃があったんですがその際、どの隊員からも一発の空薬きょうが飛び出さなかったことが、老いたOB連中の話題になりました。我々の頃は、M1ライフルそして64式小銃であり、今はあの曲がった弾倉を持つ小銃である。ホホッー、今の小銃は、空薬きょうを出さないでも連続発射が出来るのかと元戦車職種の小生もほかのリタイア組OBの連中と同じように思ったところでした。 ところが現役組が教えてくれました。今の小銃も連続射撃をするためには槓桿を引いて空薬きょうを抽出しなければなりません。それならばなぜ空薬きょうが一発も出さずに、3回も連続して射撃できたんだろうか? なんのことはない。3列横隊に並んでいる33名の儀じょう隊が一列毎、交代で撃っただけの話である。各隊員それぞれは一発しか撃ってないのである。何も新式銃でなく、そんなカラクリ?だったのを初めて知った。 ![]() お恥ずかしながら、そもそも同期生連合会そのもの何やってるのか今回参加するまで関心もなかったし、その話題に触れることもなかった。同じ時期に同じ釜の飯を食った横糸の同期生連合は、実質的に行動してるのでわかるが、ただ縦糸のこの連合会、ちょいと影が薄いと感じるのは俺だけだろうか・・・連合会会則の目的は、「陸自幹候校および各職種学校各同期生会の健全な発展に寄与し、幹部団の大同団結を促進するとともに、後輩候補生の育成に貢献することを目的とする。」とある。まぁ、陸上自衛隊の幹部団の大同団結集合体である。それならば連合会なんての名前もどっかの駅前シャッター街の商店連合会みたいでピンとこないなぁ。旧軍の偕行社みたいな存在が欲しいところか、いずれにしろ何らかの形で陸上自衛隊将校団の充実発展が望まれるなぁ・・・ 総会では、平成26年度の事業報告並びに決算報告が、数少ない総会参加者のシャンシャンの手拍子で滞りなく承認された。入校候補生からの4,500円納入による約500万円の収入に対し、大きなところでは、開校60周年記念行事支援に250万円のほか卒業候補生への階級章の贈呈や同期生会の文化活動助成金等で約700万円の支出、前年度繰越金からの200万円の取り崩しで、次年度繰越金は約1,900万円なりでした。開校60周年記念行事の一環で7階建ての候補生隊舎に「陸上自衛隊幹部候補生学校」と「剛健」の看板を寄贈したそうです。その写真は、別掲の通りです。Googleマップのストリートビューで久留米ICからの下りの高速道路を走っていると、その7階建ての候補生隊舎が良く見えますがそれにはまだその看板をつけた動画にはなっていません。そのうちこのGoogleマップ、修正されるのかな?(へんてこなサテアン騒動はあったが...)
懇親会については、省略。以上、まったく中身のないダラダラの報告終わります。 翌日はこのところのぐずついた天気で心配されましたが、幸いにも大した雨もなく61周年記念行事は滞りなく行われたそうです。 そして久留米のつつじはさらに彩を増した1週間後、車を走らせていると短パンTシャツの若者軍団が高良山を目指して、高速道路沿いの公道を走っているのが見られた。 ガンバレ!!候補生!!
そしてこの件を古賀君に報告したところ下記の返事のメールが返ってきました。彼が見たその後の福島の様子です。彼に無断で併せて報告しときます。 総会等出席ありがとうございました。またご苦労さまでした。以下、報告事項。 福島旅行ですが、19日羽田からスパリゾートハワイアン(6特中隊付き幹部の頃、中隊旅行で行ったことあり、昔の面影なし)へ無料直行バスで移動。昼と夜、フラガールによるフラダンスやタヒチアンダンス、日本の若者によるたいまつを使った(タヒチスタイル)ショー見物。日曜日でしたが、多くの人で賑わっていました。(いつも盛況だそうです)空いた時間に薄磯海岸,塩屋岬等被災地と小名浜、白水阿弥陀堂、みさき公園等を見物、 20日いわき市からレンタカーで6号線を北上、普通通りの生活地域から避難指示解除準備区域、居住制限地域、帰還困難地域と移動するにつれ、道路沿いの斜面が除染のために五厘狩りの頭みたいに短く刈り上げられた状態を所々に見、歩行者と二輪車は通行禁止になり、国道から脇道への連接部分は全て閉鎖、(線量の少ない地域にはガードマンが立ち番)道路沿いの住宅入り口も蛇腹型のシャッターで閉鎖、家の窓とカーテンは閉まり、さらに被災した家屋は壊れたまま残り、車庫や庭の車はそのまま、トラクター等の重機材も店の外側にそのまま状態で放置、道路には常にパトカーが往復。人が住まない、全く動くものがいない異常な状況の世界に、運転しながら涙が出て来そうでした。 途中、Jビレッジの中を一周(警察に呼び止められそうで、速やかに国道へ)また仮設市場で食事を取りましたが、来ている人は全て除染や住宅取り壊し、資材や土運搬工事関係者だけ。国道沿いは常に上下線パトカーが走っているので、止まって写真も撮れず。(福島泊) (谷口Add:YOU TUBEで「214.3Jヴィレッジの現状」の動画に去年の今頃の現状が出ています。私も全国大会でここには2度ほど行きましたがその動画で見る限り、あの当時の一面の芝生の光景は全然見当たりませんでした。) 21日は東北本線で南下、二本松城を見て郡山へ。郡山から布引演習場経由で会津の大内宿見物(郡山在の元中隊隊員の案内に甘えて)その夜は、4中隊有志6名との懇親会、 22日は郡山市内をバスと徒歩で移動し、元勤務した郡山駐屯地や明治初期、久留米や愛媛藩士等が開拓した記録が残る施設(開成館)を見学、駐屯地は入門許可証の交付を受けているのでフリーパス、(ここも営庭は除染したそうで、シートをかぶった土の山がありました。) 郡山市内は普通の生活状況、公園には子供連れも見かけました。しかし、所々の家屋等では屋根や庭の除染が行われていました。(初日のみ女房と行動、2日以降は女房は別行動で郡山と仙台へ、元一緒に勤務した人の奥さんのところにお邪魔、宮城県海岸の被災地等を案内してもらったようです) 長々と失礼しました。 |