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山根君の思い出 (弔辞) | 小野寺 平正 | ||||||
はじめに ○ 山根君、同期の小野寺です。 大きな病を抱えて、いつも君から元気かと励まされていた私が、今、君の御霊前に立って追悼の吟をすることになろうとは夢にも考えておりませんでした。 ○ 追悼の吟に入ります前に、君に対する感謝の気持ちを込めて一言申し上げます。 ○ 今回、私が君の訃報を知ったのは、15日土曜日の夕でした。 秋田にいる私の兄が入院したので見舞いに行っており、15日の夕、久里浜の自宅に帰った時、花井君からのメール、吉田君からの留守電が入っており、直ぐ二人に電話で確認し、事の次第を承知いたしました。 ・ とてつもない衝撃でした。半信半疑の状態で鹿児島の川畑君に電話し、ようやく確信するに至り、奥様にお悔やみの電話を差し上げました。 奥様から伺いましたが、君はこの12月17日から19日まで奥様の誕生日祝いで京都へ旅行する予定だったそうですね。まさに天国から奈落への転落です。 ・ 何という不運でしょうか。 奥様も、ご家族の皆様も余りにも衝撃的な事態に未だ半信半疑の気持ちではないかと思います。 然しながらこの残念な事実を受け取めざるを得ません。 ○ 思えば君との付き合いは、S38年4月防大11期生として入校以来 55年半になります。 防大では1年から陸上競技部に入り、君は短距離、私が長距離、2年から応用化学を専攻、幹部候補生学校終了後は、普通科職種として歩んできましたね。 ・ これは、今日、鹿児島から体調不良の中、駆けつけてくれた川畑君も同じです。 ・ 防大の同期生は、クラブとか専攻の差はあるけれど、君とは少なくとも52年程度の付き合いがあると思います。 私は同期生が君を誉めることはあっても悪口を言っているのを聞いたことは、この55年半に一度もありません。 たぶん、君が同期生の皆から最も好かれている人と思っております。 ○ 以下、防大時代、初級幹部時代、陸幕時代、君の最後の補職であった東方総監部援護課長時代について話したいと思います。 1 まず、防大時代ですが、これには3点あります。 @ 第1点目は、防大1年の時、君を見た時の強烈な印象についてです。 私は、九州男子と会ったのは防大が初めてでした。 『君の天性とも言える明朗活発さ、積極的且つ行動力に富んだ動作、決断力が早く説得力に富んだ話術、烈々たる正義感の強さ、同期生に対する人当り良さ 等々』を見て本当に驚きました。 私は秋田県の中央部に当る山間部の豪雪地帯の農村で育ち、中学3年の時初めて海を見て、なめてしょっぱいのに飛び上がる程の田舎者で、防大に入る迄標準語も殆ど話したことありません。 私は、典型的な秋田のズーズー弁の口下手で、防大入校当初は学生舎生活で一言話すたびに上級生からゲラゲラ笑われ、人前に出て話すことも少なく、どちらかと言えば引込みがちでした。 私には、君が大変大人のように見えました。 君のような人を見たのは、一種のカルチャーショックでした。そういう訳で、今日まで君から学ぶこと多々あり、深く感謝しております。 A 第2点目は、4年生の時の陸上部マネージャーとしての手腕振りです。 当時、陸上部のキャプテンは、今日、この席に列席しているハンマー投げと長距離の両刀遣いの赤羽君、サブキャップは長距離の川畑君でしたね。 当時の陸上部は、1期生以来最も部員数も多く赤羽キャップ、川畑サブキャップ、山根マネージャーが中心となり運営し、非常に団結力のある素晴らしい陸上部を作っていましたね。 その時のマネージャーとしての君の手腕は後世語り継がれる程のみごとなものでした。 その時、君は短距離で200m、400mのスプリンターとしても大いに活躍していましたね。 各種の対外試合、理工系大学対抗の担任校、箱根駅伝予選、合宿等に当っての他大学、他役所、学校当局、民間の各施設等と調整し、計画を作り、実行して行く手際の良さに、同じ4年として、君は本当にすごい能力を持っているなと舌を巻きました。 それから10数年後、君は防大学生課へ、川畑君は防大中隊指導官として着任し、2人の名コンビで防大の学生教育や交友会活動の充実発展に素晴らしい成果を上げられたということを聞いております。 B 第3点目は、君の文学的素養の豊さです。 俳句とか、短歌も作っていましたね。俳句は生涯続けられたのこと。文章も上手でした。 最も印象にあるのは、君が4年の時に作った『防大ノーエ節』という歌です。 内容は、1番が『小原台からノーエ、飛び立つ鳥はよ、鳥は鳥でもノーエ、天下鳥、天下鳥』 2番は、『観音崎からノーエ、流れる潮はヨー、流れ、流れてノーエ。世界中、世界中』というものでしたね。 これを、シンガー・ソング・ライターとしての君は、化学班兼ねて訓練班の納会、陸上部の納会の席で皆に普及し、良く歌いましたね。 これは、防大生たる者、日本国はもとより、世界を股にかけ、大きな夢を持って行動して行かねばならないという気宇壮大な心意気を歌ったものであり、君の面目躍如たるところが出ており、私の大好きな歌の一つです。 2 次に初級幹部時代ですが、これには2点あります。 その前に初級幹部としてのスタートは君が秋田の21連隊、私が多賀城の22連隊でしたね。 @ 第1点目は、2等陸尉になった頃の、S45年5月の連休間における農家体験のことです。 連休に入る直前、秋田にいる君から多賀城にいる私のところへ電話があり、『おい、小野寺、お前連休間2〜3日休みが取れるか』と言うので『うん、取れるよ、どうした』と聞くと、君はこう言ったね。『秋田の連隊は典型的郷土部隊で農村出身の隊員が多く、農繁期に入ると隊員が農作業のため、よく休暇を取るんだよ。したがって隊員の気持を掌握するためには農家のことを少しでも知りたいと思っている。それで、お前の家で農家の体験をしたい』という事だった。 実は、山根君が私の実家に来るのは2回目だった。 昨年の秋、秋田の連隊が担当した6師団の幹部レンジャー訓練に、山根君も私も参加していて、訓練終了の打ち上げを私の家で行い、学生22名、一晩中飲み明かしたことがあった。 5月の連休間は田植え前の準備で、冬に馬ソリで田んぼごとに堆肥を運んであるのを、手押し車で小分けして田んぼの角々まで運び、それをフォークでまき散らし、その後、馬に鋤を引かせ耕すこと等、大部体力を要した。その堆肥まきを1日中、堆肥の馬の糞だらけになりながら2人で行った。 2日目は、畑に植えるキューリ、長芋、つるいんげん等のつるを巻きつけるための、3m以上の木の枝を取るため山へ行って伐採したり、トマトやナス等植えるための畑のうね作りをした。 2日間の体験が終った後、君は『これで、少しは隊員の気持はわかるような気がする。やぁーとてもいい体験をさせてもらったよ』と言ったね。 私は真剣に隊員のことを理解しようとする君の真摯な心意気と隊員に対する深い愛情を感じたよ。君は本当に素晴らしいなぁーとつくづく感じさせられたよ。 A 第2点目は、同じく、S45年秋の君の結婚式のことです。 9月のはじめ頃、君から電話があり、「10月に結婚するので、小野寺に友人代表として挨拶してもらいたい」ということだった。私は「頼まれなくても、俺は行くよ。ところで相手はどんな人か」と聞いたら、君は「ミッションスクールの秋田聖霊女子大学卒業のすごい秋田美人だよ」と、嬉しそうに言ったね。 私は「それは良かったな。おめでとう。絶対に行くよ」と云う事で電話を切った。 結婚式に出席し、君の言うとおり素晴らしい秋田美人の奥さんで大変嬉しく思いました。 結婚式には、同期の吉田満君も来ていたね。 その時の私のスピーチの中で、君のエピソードの一つとして、防大4年の時に君の作った『防大ノーエ節』、あの「小原台からノーエ」の歌を紹介し、2番目まで歌ったことが思い出されます。 あの歌には、気宇壮大な君の心意気が最も端的に表現されており、君の美人の奥さんに君のことを知ってもらうためには、あの歌がいいと思った。 3 次は陸幕時代に、君に大変助けられたことです。 私は、S56.8〜S61.7迄の5年間を陸幕防衛課業務計画班に勤務し、59年度は業計班の主務をしていました。同じ防衛課には同期の小柳君が編成班の主務をしており、また、他の部の主務も同期生が就いており、皆に助けてもらいました。 59年度業務計画担当は、頂度、56年度中期計画から59年度中期計画に変った端境期の年で、他の年度にはない種々複雑な要素があり、対内局、対大蔵説明でかなりきつい思いをしながらの勤務で、相当疲れておりました。 頂度、その頃、山根君は陸幕人事計画課総括班に着任していましたね。 ある時、君から『おい、小野寺、下を向いて歩くな!もう少し視線を上げて堂々と歩けよ!大変なのはわかるが、見苦しい。空元気でもいいから自信ありげに歩けよ!』と言われ、ハッとしたことがあります。 全く、その通りだった。あの時の君の注意は万金の重みがあった。視線を上げて歩くのと、視線を下げて歩くのでは、物の見方が180°違うという事を思い知らされた。 同期という者、友人という者は、本当に有難いなとつくづく思ったよ。何とか勤務出来たのも、君のあの一言があったからだと思っております。本当に有難うございました。 4 次に東方総監部援護課長を最後に退官する時、企業に就職せずに、自宅に戻り、農作業を始めたことについてです。 私は、君に『退職時まで援護していたから、企業の内容については十分知っているだろう。どうして企業に就職しなかったのか』と聞いたことがあったよね。 君が言うには『就職難の時代で、定年退職する1佐・2佐の人を企業に就職させるため、各企業を訪問し、人材を紹介し、採用してもらうのは、かなり厳しい状況だった。そのため、各企業の人事担当者との人間関係作りも必死で行った。 企業側の要求する人材の要件も厳しいし、それに見合うひとも必ずしも十分にはいない。それでも就職させなければならないから、いろいろ、こちら側のセールスポイントを見い出し、いい人材ということで、何とか採用してもらったこともある。 また、努力に努力を重ねて、適材と思った人を就職させても、その本人が就職後、短期間のうちにやめてしまい、企業からクレームがつき、次の要員の採用を断られることもあった。 また、企業側からは、よく、『うちの企業でほしい人材は、山根さん、あなたのような人です。今、山根課長さんが紹介してくれる人は、ちょっとね』と言われることがよくあったとのこと。 『したがって、自分が自衛隊を退官する時は、複数の企業から是非、うちの会社に来てくれ、というオファーがあったが、然しながら、この企業との人間関係は、援護課長としての職務遂行を通じて作り上げたものであって、これを利用して、自分の就職を有利にすることは、自分の本意とすることではない。よって企業には就職しないことにした』と言ったね。 私は、君の考えを聞いて本当に驚いたよ。 他人の為には骨身を削って、ひたすら努力し、その成果である企業との人間関係を自分の就職には利用したくないという、全く私心なき精神に徹していることに脱帽したよ。 君は何てすごい男だと、心底から思ったよ。 ○ おわりに 自衛隊を退職し、家に帰ってからは農作業のこと、隊友会のこと、自治会のことを行いつつ、42期同期会の役員を長年に亘り継続してやってくれたね。 私は、君のように一切の私心を持たず、ひたすら自衛隊という組織のため、また、同期生会や隊友会、自治会、陸上部OB会等々、世のため、人のため、積極的に奉仕の精神を持って、尽くして来てくれた人を余り知らないよ。 多くの同期生の皆さんも同じ思いかと思います。 君のような素晴らしい友人を持てたことを大変嬉しく誇りに思います。 ○ 大部話が長くなってしまいましたが、それでは、追悼の吟に移ります。 追悼の吟は、漢詩と和歌の2題です。 今の私の気持そのものです。 涙が出そうになり、最後まで吟じれるかわかりませんが、精一杯吟じますので、聞いて下さい。 ○ 追悼の吟を実施 「追悼の詩」 「なき人を」 ○ 吟終了後 山根君、君はあと43日後の49日目に極楽浄土に向かわれるが、どうぞ、極楽浄土から君の愛する奥様、お嬢さん達、お嬢さんのご家族を見守って下さい。 私も可能な限りお手伝いしたいと思っております。 長年に亘る君の友情に心から感謝申し上げます。 君から実に多くの事を学びました。 有難うございました。 安らかに眠りについて下さい。 さようなら。 |