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山根君の思い出(追悼) | 田中 征之 | ||||||||||||
山根嘉大君の不慮の事故死からすでに2週間過ぎた。 光陰矢の如しで、次第に記憶が薄れていくが、彼の思い出はいまだに強い印象として残っている。 それは18日の葬儀に多くの同期が集まり、心から哀悼の意を示し、最後の別れをしたこと、小野寺君の感動的な素晴らしい弔辞と詩吟の吟詠があったからかも知れない。 弔辞の中で述べられた山根君の凝縮された素晴らしい人生とエピソードに、私も共通することがあった。 彼とは防大3大隊で確か2年から4年まで一緒だったが、班も違い、同室になることもなかったので、集会室でTVを見ているときに挨拶する程度だった。 あるとき台風がきて、小原台は高台なので、夜中じゅう外はかなり強烈な風雨だったが、我々は暖かいベッドの中で白河夜船。 翌日は風雨も収まり、たまたま彼と顔を合わせた時に「昨晩は大変だったよ」とこともなげに言うので、どうしたのだと聞くと「ちょっと心配だったので、一晩中建物の周りの見回りをしたとのこと。 「えー、一晩中寝ないで見回りをしたのか」と答えたが、恥かしいことに「ご苦労様でした。」の一言も言わなかった。 しかし彼のことを凄い男だと意識するようになった。 当時、彼は小隊学生長だったと思うが、指導官に言われたわけでもなく自発的に見回りをしたことは、彼はすでに確たる任務意識を持っていたと思った。 将来のことも考えず、ぼーつと過ごしていた私にとって強烈なインパクトだった。 小野寺君が弔辞で述べているように、その言を引用すれば、彼はすでに「天性の明朗活発さ、積極かつ行動力に富んだ動作、決断力が早く説得力のある話術、正義感の強さ。 一言でいえば大人だった。」とつくずく思う。 卒業後は職種も違い、しばらくは疎遠だった。 たまたま彼が防大学生課に赴任していた時に、私の親戚が走水にあって、山根君の二人の娘さんが親戚の娘2人と走水小学校で、一緒で、仲良しだったことから、家族ぐるみの付き合いをしているという事を聞き、びっくり! 「縁は異なもの」と言うが、親戚は「山根さんは本当にいい人ですね。」と嬉しそうに話していたが、彼には周りの人を惹きつける人間的魅力があったと思う。 葬儀の前に初めて奥様と話す機会があり、奥様の方から「主人も良く話していました」と私の名前も覚えていて下さった。 ご夫妻にとって彼の防大勤務時代は、平穏で楽しい時代ではなかったかと思う。 当時、私は通信学校教官で久里浜に住んでいたので、すぐ近くにいたのに何故会いに行かなかったのか、悔いが残る。 その後、月日が経って彼が東方の援護課長の時、久しぶりに会う機会があり、小野寺君の弔辞にあるように、大網の地で晴耕雨読の生活を送ると言っていたが、まさに有言実行、それを実現したのだから彼らしい生き方だとおもった。 その後、彼は同期が集まる(空の赤羽君、海の亀井君も)ぞろ目会に、大網から欠かさず来てくれた。 奥様の喪主の挨拶の時に「主人はぞろ目会のある日は嬉しそうに出かけて行った」とのお話があり、彼が離れた地にあっても、同期を思い、会うのを楽しみにしていたことを知った。 そのぞろ目会では主として同期が講師となつて、一時間余講演をすることを慣例としていて、山根君も講師として話をしてくれた。 それは御夫婦での大網での生活の話が中心だったと思うが、その中で「東にスーパーの安売があれば走り、西にあれば走り、遠路も問わず自転車で買い出しに行く」という話があり、「まめな」彼の面目躍如、これだから奥さんも付いてきてくれたのかなと思った。 その他、外国から戦没者の遺品の返還があるという話を聞いた時には、遺族のもとに届けるために文字通り「東奔西走」、その外国まで自費で行って、見事に返還式を実現したという。 頭が下がつた。 12月のぞろ目会を最後に、もう会うことも話をすることもかなわないことは、残念で寂しい。 君のことはいつまでも忘れない! 「田中よ、元気でやってるか」と語りかけてくれた君の快活な声が今でも耳に残っている。 「安らかにお眠り下さい」 そして天国で再び会えるまで山根君の分まで生きていくので、見守ってください。
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