会員の動向 | ||||||||
「お通夜」辛島靖博君のお通夜に出席して | 田中 征之 | |||||||
最近は結婚式のお呼びは全くなくお通夜に参加することだけだ。 お通夜、それは大勢の人が参列する盛大な通夜もあれば、小人数だがしみじみとしたお通夜もある。 私は告別式よりもお通夜に行くことが殆どだ。それは行きやすいこともあるが、生前の故人を知る多くの人が集まるお通夜は人生模様が感じられるからかも知れない。 辛島君が亡くなってからもうすぐ1年になる。 もう昨年になってしまったが、2月8日に逝去され、通夜が15日に行われることを知った。 残念ながら辛島君のことは名前は知っているがどういう人だったか思い出せない。 たまたまその時期に名簿の住所確認をしていて、各班ごとに前年の返信ハガキを区分けして並べて置いてあっとので、6班の所を見ると、何と辛島君のはがきが一番上にあった。 不思議なこともあるものだ、まるで会いに来てくれと呼び掛けられているような気がした。 その時直ぐに思ったのは、母が死んで一年目の盆の入りの13日の夜にセミが母の遺影の真上の柱にじっと動かずに止まっていたことがあり、セミに託してお盆に帰ってきたのかと不思議なこともあるものだと思ったことだった。
偶然とは言え不思議な縁を感じて、すぐにお通夜に行きたいと思った。 幸い寺沢君がメールで地図と時間、場所をメールで知らせてくれていたので、14日のお通夜に出かけた。 場所が戸塚の戸塚奉斎殿というところだったが、戸塚は意外と遠く時間がかかった。 戸塚の駅から斎場までは普通の人なら10分とかからないのに、脊椎棺分離症でしばらく歩くと足がしびれてくるので、途中休み休み、斎場に着いたのは19時開始の直前だった。 この戸塚奉斎殿という斎場はビルになっていて中も広く内装も豪華と言えるくらい立派な斎場だった。 エレベータを出ると洞沢君が案内で待っていてくれて、式が行われる場所まで案内してくれた。 その道すがら辛島君との関係を聞くと、家が近くで近所付き合いをしていたとのこと、あとで内村君がホームページに載せた記事で知ったことだが、防大のアメフット部でともに励んだ仲で、病を抱えている辛島君を何かと面倒を見てくれたそうだ。
式場の近くに行って、驚いたのは参列を待つ人の多さだった。 聞けば、約300人の参列者の多くは地元の人だという。 田舎では近隣近在の知人が集まるのは当たり前だが、都会でこれだけ多くの地元の人が哀悼の意を表するために集まってくれるのは珍しい。 きっと地元に貢献したのだろうと強く印象に残った。 これも内村君の記事で知ったが、辛島君は海外勤務等で大いに活躍し、第2の人生は町内会長としてイベントや小学校支援など地域の人との絆を大切にし、奥様とともに地域貢献に活躍したという事で、なぜこれだけ多くの地域の人が集ったか分かった。 きっと信頼され、親しまれ、頼りにされていたのだろうなと思う。 彼の活動はその後も続けられたようで、はがきには「ボケ防止のため地域のボランティア活動に精を出しています」とあったが、今ならその言葉が良くわかる。 2年前にはすでに体は大分きつくなっていたと思うが、それでも地域に貢献したいという強い思いが彼を支えたのではないかと思う。 立派な人生を送られたと思う。 焼香が始まって長い列の中、順番が回ってきて慰霊に合掌し、焼香した。 少し残念だったのはゆっくり遺影に合掌し焼香し遺族の方に哀悼の意を表せなかったことだが、これだけ多い参列者ではやむを得ないことだった。
退出したあと、お供養の飲み物と料理を頂いた。 傍に永松君と高校の同級性がいて、永松君は高校、防大と辛島君と一緒、先に他界した河合洋君は中・高・防大とずっと一緒だったとの話を聞いた。 高校の同級生が3人揃って防大に進学するのは多分珍しいと思うし、ちょっぴり羨ましく感じた。 そのあと受付の労を取ってくれた内村君や洞沢君に挨拶して斎場を後にした。 帰り道何度も斎場を振り返り、本当にお通夜に来て良かったと思った。 辛島君の立派な人生の一端を知ることが出来たし、多くの同期が辛島君の死を悼んで集ったこと、同期の絆を強く感じたことなど。 お通夜にはアメフットの洞沢君、富士君、中村浩三郎君、高校同期の永松君、そして6班から内村君、石川君、庄司君、山田君、元場君、清水君が参加した (告別式には玉井君、伊藤君も参加) 特に6班は皆が内村君を中心に辛島君を励まし、支えてきたことに感銘を受けるとともに絆の強さを感じた。 その後、ホームページに載った内村君の心情溢るる弔辞を読んで、辛島君の送った素晴らしい人生を知り、内村君が防大以来50年に及ぶ交遊関係があり、辛島君が難しい病であることを知ってからは陰になり日向になり支えてきたことに感銘を受けた。 その文の中で辛島君が文武両道の優秀な学生であったことの紹介に強い印象を受けた。 どこの班にもキラリと光る秀才がいるものだ。 3班にも木村正奏君という理数系に優れた秀才がいて、長尾先生(1期)の情報理論が全然解らす試験の前日に木村君の所へ行き、「シャノンー染野の定理」は必ず試験に出るから教えてくれと頼みに行った。 すると彼は本も見ずに分かりやすく教えてくれた。 試験には見込み通りこれが出て、おかげで欠点を免れたことがあった。 内村君も辛島君が難しい「自動制御」の方程式をすらすらといたことに関心したという逸話に何か共通点があるように思えた。 辛島君が難し病気に罹らなかったら、その明晰な頭脳を持ってさらに活躍し多だろうと思うと残念なきがする。 辛島君が亡くなった後、九州の谷口君に、お通夜の様子を写真とともに送るからと言いながら、ぼーっとして何もせず、間もなく1周忌、ようやく遅れに遅れて追悼(お通夜に出席して思ったこと)の記事を書いたので、辛島君を知る同期、特に谷口君を始めとする6班の人に読んでもらい、思い出の縁として頂ければ幸いです。 なお、時間が随分経ってしまったので記憶に誤りがあれば、お許しください。 |