会員の動向

佐藤光武君を偲んで

R1.7.15
福田 忠典



 佐藤君が逝って間もなく3週間になる。
 学生時代、いつもエネルギッシュ、明るく、元気印の筆頭で、我々電気3班のリーダーだった彼が急に居なくなったとは、信じがたく、寂しい思いである。


 ラプラス変換等、電気数学が苦手だった小生は、よく佐藤君に教わった。多感な年代の3年間、学生舎生活、訓練、勉学等苦楽を共にした。
 頭良し、体力抜群でバスケット部の主将、大隊学生長も勤めた。
 気持ちが強く、行動派の佐藤君に対し、小生の方は、柔道部では白帯からの下積み、学業も何とか欠点を取らないレベルで、お人好しだけが取り柄の気弱な人間で、彼が羨ましい限りであった。
 夏休みには、徳島の小生の実家で泊まってもらったり、裸の付き合いだった。


 確か2学年の秋、槇智雄学校長が亡くなられて、大森寛元陸幕長が就任され、学校長との懇談に我々の班から佐藤君が選ばれて出席した。
 彼の「学校長はどうして学生に人気が無いんですか」との発言が大きな問題になったようだが、権威に反抗感の強い我々は、大いに拍手喝采したものだった。
 怖いもの知らずの感じで、私共弱気集団も彼に触発されて、学年が上がるにつれてどんどん生意気になっていった気もする。
 前原輝夫指導官からは、「お前たちは反抗的で、3班はまとまりが悪い」と、よく気合を入れられた。同じ学生舎で陸上要員の12班がよくまとまっていたようで。
 ともかく学生時代の彼は、同僚や後輩の面倒見も良く、皆に信頼もされ、本当に輝いていました。


 卒業後、幹候校を経て部隊に配属され、我々が第一線勤務で作業員的な勤務をしている頃、彼はイリノイ大学に2年間留学し、米国で修士号を取った。
 帰国後いろんな勤務を経て、また大阪大学で3年間学び、博士号を取得した。選ばれたとはいえ、自衛官生活の中で、合間を縫って理工学の研鑽は、ぞかし大変だったのでは、と、身体でご奉公する我々は推測をする。
 彼は、早い時期に、統幕事務局(秘書室)勤務の事務官(今の奥さん)と結婚され、確かイリノイ大学へは単身で留学された。ともかく利発で行動的、字もすごく綺麗で我々が尊敬するご夫人である。


 経歴管理が違った彼と部隊勤務等で一緒になることは、殆どなかったが、唯一3カ月間一緒だったのが札幌の北部方面総監部での勤務。
 彼が装備部長で、小生が幕僚副長、立場が逆転したみたいで、やりづらかったが、官舎等では単身赴任同志で久々によく飲んだ。細田君や庄司君も一緒になって。
 当時の上司は、部隊勤務経験の少ない彼に厳しく、カンボジアPKOの初派遣等難しい装備行政に、彼も苦労していたようだが、小生も助ける力及ばず、3か月後、確か通信学校へ転属となった。
 通信学校でも、身分証明書の一時的な紛失で、厳しい学校長から処分を食らう等、大きな打撃になったようだ。
 この北方総監部・通信学校での勤務が、不本意ながら、彼の自衛官人生終盤の大きなトラウマになったのかも知れない。
 自衛隊という組織は、厳しい減点主義でもあり、そのことにより能力のある人材を取りこぼしてしまうことがあるのかもしれない。彼には組織の中でもっともっと活躍して欲しかったと、今でも思っている。


 退官後しばらくして、彼は片目が見えづらくなったとかで、3班会に殆ど顔を出さなくなり、仲間と一緒になって、昔のバカ話しをする機会もなく、元気印の佐藤君の面影が見られなくなった。
 約3年前、春の叙勲受けの時に、奥様と一緒に参加され、防衛省やホテル椿山荘、皇居等で、長い時間を一緒に過ごし、久々に昔話に花を咲かせましたが、お互いに耳も遠くなり、身体の悪いところ等、寂しい話が中心。
 耳の遠い私に、「福田、お前耳が良く聞こえるな」と、感心されたのは、驚きでした。声も大きく、動きもしっかりとしており、昔の元気印の佐藤光武の面影は十分でした。
 これが小生が、佐藤君とあった最後の機会でした。 まだまだやっていける感じでした。


 この度の訃報は、奥様と散歩中からの急展開で、転んで怪我をしたので近くの病院で治療を受け、自宅へ帰る途中、急に胸が苦しくなって、救急車での緊急入院となり、一旦持ち直したもののしばらくして症状が悪化し急逝された由(心臓マッサージで周辺の骨が折れ、大動脈に突き刺さり、その出血多量が原因とか)。
 以前から、時々胸が苦しそうで手で抑えることがあり、心筋梗塞の前兆だったかもしれないとのことでした。
 亡くなる数日前までパソコンで株もされていたようです。



 お互いに、身体のあちこちにガタがきて、明日は我が身の年代ですが、若かりし頃の佐藤君の明るく、エネルギッシュな面影を偲びながら、心からのご冥福を祈念しております。