会員の動向

佐藤光武君を思う(思い出)

R1.7.15
田中 征之



 福田君からのメールで、佐藤光武君の突然の訃報を知り、びっくりだった。

 ホームページにも訃報が掲載されていて細部を知ることになったが、班会の欠席や、風のうわさで「体の具合が悪い」とは聞いていたが、こんなに早くとは夢にも思わなかった。
 彼のイメージは体が大きく元気者、しかも同期で唯一の博士という事だから、奥様の話での「深刻な病状」にあったとは知らなかった。

 佐藤君のことだから、持ち前の体力と気力、知力で多少の病は克服していくだろうと安易に考えていた。
 見舞いにも行かず、励ましの手紙も出さずで、自分の薄情さに情けない限りだ。



 奥様は本当にご苦労が多かったと思う。
 今にして思えば、やはり北海道勤務での苦労が知らず知らずのうちに彼の身も心も蝕んで行ったのかなと思う。

 私個人の考えだが、博士は「特別管理」すべきと思う。TACを出たら技本の班長、開発課長、開発官そのあとは防大の教授として研究と後輩の指導に当たる(彼の愛したバスケ部の顧問としても)というのが私の「特別管理」のイメージだが、現実はそういうわけにもいかないようだ。
 佐藤君の能力・才能を生かす人事管理であったらと残念に思う。



 私も佐藤君には若いころ色々とお世話になったので、せめて彼の事を記憶に残したいと思う。
 幸い、細田君が同期(陸)の42期生会のホームページを出してくれているので、「佐藤光武君を思う」という題で、拙文ながら、ほんの断片に過ぎないが、彼との思い出にふれたい。


 防大2年の時から電気3班で一緒だった。
 3大隊で小隊も同じだったと思う。当時彼はバスケも一生懸命やり、学業も優秀という学業とスポーツが両立する羨ましい存在だった。
 
2年から電気の専門教育が始まるが、最初に「電磁気学」という電気で最もとっつきにくい、難しい科目があった。
 夏休みが終わって授業が始まると、彼は教科書に載っている問題を全部解いたとさりげなく言った。
 これにはびっくり、合宿もあったろうし、いつ勉強したのだろうと思った。
 すでにこの頃から将来は「博士に」という進むべき道を描いていたのかも知れない。


 次はBOCの時、通信のBOCは久里浜の通信学校で、彼は課外に毎日防大まで駆け足で行き、バスケ部の後輩の指導に当たっていた。
 体力検定の1500mもダントツで、4分台の半ばで走ったのではと思う。
 その体力は凄いというのが一番の印象だった。

 当時、後に奥様になられた寛子さんと親密な付き合いがあり、毎日愛の手紙の交換をしていて、我々を大いに羨ましがらせた。
 BOC同期では一番早い結婚で、市谷会館で行われた結婚式に呼ばれて2人の門出を祝った。
 その後、彼は防大の研修生を経て米留、修士となって阪大の論文ドクターコースへ、私は名古屋の部隊勤務で会う機会はなかった。



 10年近い時を経て再会したのは、彼が阪大のドクターコース(論文ドクター)に居た時に、私も研修生(1年間)で富士通大久保工場に行っていて、大阪に来ているならと彼の車で万博跡や箕面にある岩本君の実家等、大阪を案内してくれた。
 その時に、阪大の論文ドクターコースの苦労もちらっと話してくれた。

 論文ドクターは電気通信学会誌に3本論文が載ることが必須の条件だそうで、1本通るのも大変なのに、3本とは大変な努力が必要だろうなと思った。
 論文は当然所属する研究室の教授や先生方の指導や承認が必要で、そのため論文を書く以外に持ち前の面倒見の良さを発揮して研究室の学生の卒論指導や研究室のスキー旅行まで面倒を見たそうだ。

 当時同じ研修生で来ていた後輩がガンになって、心配した開発課長(功刀さん)が見舞いに訪れた時に、彼は課長以下私を含めて4人ほど自宅(あの狭い官舎)に泊め、夕食まで振舞ってくれた。

 今から思えば奥さんも大変だったろうと思う。
 それ程、面彼は面倒見が良く、輝いていた。
 その後苦労して博士号を取り、同期の希望の星となった。



 北方の装備部長まで栄進したと聞いていたが、その後しばらくたって通信学校の一教部長で来た時には、あの快活で面倒見の良い彼とは別人の感を受けた。
 何故だろうと不思議に思ったが、一緒に勤務したのはほんの少しで私は調本に転属したので、通信とは縁が切れ、彼との交遊も途絶えた。
 後に北方勤務をした同期から彼が装備部長をしていた当時の(人間関係?)の話を聞き、あの快活で先輩も同期も後輩も面倒見の良かった佐藤君が何故、と半信半疑の思いだった。


 「佐藤君の思いで」は私の知る、輝いていた時代の佐藤君のイメージから一歩も出ていないのは不思議な感がする。


 福田君からの心情溢れる追悼文を読むにつけ、彼が通校に来た時に何故気軽に話に行かなかったのだろうと後悔が先に立つ。


 福田君の文と全く同感で、少し引用させてもらう。

 人生の後半病に苦しんだ君だが、寛子さんという素晴らしい奥様に最後まで面倒を見て貰い、幸せだったと思う。

 そして我々は若かりし頃の輝いていた君の明るく、エネルギッシュで面倒見の良い面影を偲びつつ、心からのご冥福を祈念したい。