1. 6月24日朝3時起床。外はもう薄明るい、でも霧がかかって、一寸寒そう(実際7,8度)、「さとうの切り餅」4切れを磯辺焼きにして食べ、4時に家を出る。
スタート地点の湧別総合体育館まで車で35分ほど、湧別につくと霧雨になっていた。
例年通り彼方此方車で一杯、テントを張って泊まった人たちも彼方此方に、私は離れたところに駐車して、まずトイレへ、出すべきものを出して、中間地点と、ゴール地点への荷物を預け、列に並ぶ。
過去3回は半袖での参加でしたが今回は長袖、おまけに雨もあったので45㍑の透明のゴミ袋を首と両腕のところに穴を開け被る。
2. 5時スタート。でもゲートを通過するのに2分。辺りの人達に合わせてノンビリと走る。
走り始めて30分、目の前にゼッケンに「浦安走友会」、番号からすると65歳を過ぎている。「大震災の時液状化で大変だったのでは?」と声を掛ける。
「全壊ですよ、いまだにそのままです」との返事。暫くそのまま話を、現在70歳で、2年前には日本縦断をしたとか。今回で6回目の完走を目指しているとの事、お互い頑張りましょうと、私はトイレへ。
15km付近。20km手前で折り返してくるトップとすれ違う。25、26回大会の時は3~4人が集団でそのなかにエリック・ワイナイナ(オリンピックメダリスト)がいたのに、今年は200~300m離されて2番目ですれ違う。
「エリック!頑張れ!」と声を掛ける。「オー!」返事が返ってきた。元気そうだったが途中棄権したようです。
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3. 20km過ぎるころからどうもお腹の調子が・・・、重たいな~、こんな調子では100kmもたないな、何時止めようかと止める言い訳を考えながら走る。
でも北海道新聞の取材を受け、23日の朝刊に載り、町内の知り合いにも頑張って、なんて言われては止めるわけにもいかず、行けるところまで走ろうと決める。
4. 30km手前で近所の飲み友達がわざわざ夫婦で応援に来てくれ「頑張って、新聞も読んだよ!」。日曜日の朝8時頃から、車に乗って30kmほど離れたところまで声援をしに、ありがたいことです。感謝!おかげで一寸元気が出る。
5. 50kmの給水地点で水を飲んでいると、「米堂さん頑張って!」佐呂間中学校の校長先生が声を掛けてくれ、予想もしていなかったので一瞬ビックリ、校長は生徒たちと一緒に給水地点のボランティア中、子供たちも「頑張ってください!」、私もそれに応えて「有難う頑張るよ!」。
55kmのレストステーションでは遠軽調停協会(一応私が会長をしています)の2名の女性がボランティアとして活躍中、私の膝のテーピングを手伝ってくれました。
「主人にはこんなことしないんですヨ」なんて言われ、いよいよ途中棄権なんかできない状況になって来ました。
6. 60km過ぎに約5kmの林間コース、木のトンネルでとても涼しく、過去3回は此処でタップリと歩いて時間をつぶし、体力の回復?を図っていましたが、今年は30歳代の横浜から来た若者に声を掛けられ、「私、初参加なんです。こんなペースで大丈夫なのでしょうか?
フルマラソンは3時間40分ぐらいなんですけれど」「全然問題ないよ、このペースで行けば11時間台でゴールできるよ」・・・・と一緒に暫く話をしながら、おかげで歩くことも無く給水地点まで走ることができました。
7. 75kmの給水点は『ホテル鶴雅』さんが出す汁粉が楽しみ、初参加の時は残っていなかったけれど、25、26回と今回も、有りました。
ついでに冷麦も食べ、水もしっかり飲み、また頭にも掛けて、サー行くぞと思っても足が思うように動かない、きついなー。
8. 80kmからワッカ原生花園の中、4~5mのアップダウンのクネクネとした道を歩くような、はたまた走るような、もう此処まで来たら止めることなんか頭の隅にもありません、ただ、ただゴールすることだけ、あと2時間30~40分でゴールできる。と思うといくらか力が出てくる。
ハマナスが咲いているので、「ワー、キレイ!」などといって携帯でパチリとする人がけっこういます。
私にとっては普通の景色なんですが、都会からくると美しく見えるんですね。「こちとらそれどころではねーよ」、移動(決して走るとは言えない状態です)するだけで精一杯。
最後の3kmはやけくそでとばす、今年も最後の10kmは途中歩いたのもかかわらず1時間10分を切ることに。
ゴールが近づくにつれ、先にゴールした人、家族そして常呂の人達の「お帰り、もう少しの辛抱だよ、頑張れ!」と走っている皆に声援を送ってくれました。
「有難う!」とそれに手を挙げて応える余裕?
9. 歓喜のゴール、11時間32分43分。
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目標の30分は切ることができませんでした。一寸残念。
初参加の24回大会の時はゴールすると、達成感、満足感それと声援を送ってくれた家族、ボランティア、地域の人達に対する感謝の気持ちで自然と涙が出てきましたが、もう4回目ともなると感謝の気持ちには変わりは無いのですが、それ以外はもう当然となってきました。
そしてゴールしてしまうと、途中ではきつくてきつくて何で金を払ってまで走っているのだろう、もう来年は決して申し込まないぞと思いながら走っていましたが、そんなことすっかり忘れて、「また来年会いましょう」などと辺りの人と声を掛け合いました。
10. なぜそんな馬鹿で無茶な事を始めたの?と皆さん疑問に思うでしょう。
皆さんの中には麻雀、ゴルフ、カード等を(お金を掛けて?)目の色を変えて、仲間を集めて・・・・それと同じなんです。
ただ違うところは一人ででき、身体を鍛えることだけができると言うことが違うのかな、要するに趣味の世界なんです。
ただ30歳の頃帯広にいるとき、駐屯地のスケートリンクで5歳の娘を肩車をして滑っていて転びそうになり、子供を放り出すわけにもいかず、我慢して左ふくらはぎの肉離れ、膝関節損傷で3週間入院したことがあったのです。
その古傷のせいなのか、年のせいなのか55歳頃から階段を上る時痛みが出るようになったり、スキーで深雪の中を気持ちよくシュプールを描いていると、直ぐに膝が笑い出し、足の踏ん張りが利かなくなって転倒。
これから益々筋力が落ちてくる、何とかしなくては、と思って月に4~5回7~8kmを走っていたんです。
でもただ走るだけでは直ぐに飽きてしまう、何か大会に出てみようと言うことで一寸真面目に走り始め、そんな時に遠軽の北海道新聞支局長と知り合い、たまたま支局長が所沢出身、我が子達の中学校の先輩でサロマ湖100kmウルトラマラソンに出て完走した。と聞き100kmは無理だから50kmに出るよと、でも「何言ってるの折角だから100に出ましょう」
これで決まり、出てしまった。そうしたら完走することができた。
それともう1つ、年とともに皆さんも夜何回かトイレに行くようになっていませんか、1~2回ならまだ良いのですが、3回を超えると夜寝たようには思えなくなりませんか?
昼間走ってタップリ汗をかくと、少々水を飲んでも朝5時ごろまで大丈夫。
もちろん74kgあった体重も14kg減量の60kg、血圧も130前後。今のところは病院の世話になっておりません。
ただ痩せ過ぎて、貧相なジジーになってしまって、冬の寒さが骨身にしみるのと着る物が合わなくなって不経済なことが困ったことです。
それでも年寄りの冷や水ではなく青春万歳です。
11、 付録(余計なお世話)
同期の皆さんも殆どの人が「サンデー毎日」ですよね、何もせず毎日家のなかでゴロゴロしていませんか?
もしそうなら病気になるのを待っているような気がするんですが?
特に食後じっとしていると、すい臓に負担が(インスリンの分泌のため)かかるのだとか?食後奥さんの代わりに皿洗いでもすれば、エネルギーの消費にもなるし、奥さんにも感謝もされると思うのですが、やってみませんか、できれば調理も(不幸にも奥さんに先立たれた時のためにも)。ついでに掃除洗濯も。
さらに地域貢献のために「キョウヨウ(今日用)」があって、「キョウイク(今日行く)」所のある生活のほうが良いと思うのですが。
参考までに
『青春の詩』の一節から -サミュエル・ウルマンー
「年を重ねただけで人は老いない。
理想を失うときに初めて老いがくる。
歳月は皮膚のしわを増すが
情熱を失うときに精神はしぼむ」
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