42期 徒然草
シチリア島を訪ねて 阿保 文敏

 「シチリア島」はイタリア半島の南部、つま先に隣接して浮かぶ、地中海最大の島そして地中海の真ん中に位置する。本土とはメッシーナ海峡を船で40分程、列車を運ぶ連絡線がある。
 シチリアに興味を持ったのは、ローマ帝国の初期、カルタゴとの戦い(第1次ポエニ戦争)の場となった処を見たいと思ってのことだ。ついでに南イタリヤをナポリ~アルベロベッロと観光した 
 
〔州都パレルモ〕が最初の訪問地
 人口68万 古くから続く大きな町で商工業 観光交通の要点となっている。
 地中海の真ん中に位置する温暖な地、その故にギリシャ、ローマ、アラブ、ノルマンと南北からの支配を重ねており、異文化の入り混じった独特の雰囲気を漂わせている。
 
 特にイスラムとビザンチンの様式が混じった教会内装のモザイクが素晴らしい 

 どちらも12世紀のノルマン王朝期のもの
ノルマン時代の協会内モザイク ノルマン王宮内のパラテーナ礼拝堂

  観光パンフの中にノルマン王宮とあるがノルマン王宮とは何だと疑問に感じた。ノルマンはバイキングの南下勢力の末裔が起こした王朝となっている。南イタリヤの豪族の内紛に際して、北フランスからノルマンの傭兵を雇い入れたが雇い主の豪族が共倒れになり、その隙に傭兵隊長がシチリヤを制圧したようで面白い。ナポリを含み半島南部を制圧 ギリシャへも勢力拡大を図るも達成せず。

〔ギリシャ時代の神殿が建つアグリジェントの町〕
  島の南部海岸に開けた都市 ギリシャの人々が開いた都市で その人々が
  構築した巨大なギリシャ神殿が崖の上の台上に連なっている
  しっかりと太い柱が立ち並ぶ
古いアグリジェントの町のギリシャ神殿

〔ローマ時代の別荘カサーレのモザイク〕
  町からかなり離れた山の中にある古代ローマの別荘。
  建物の床には一面、モザイク模様で敷き詰められており、それを踏んで建物に入っていくが、磨り減らないのかと躊躇する。
  別荘のなかは様々な部屋、広場、浴場、屋内運動場等、それぞれに「床タイル」「壁面モザイク画」で埋め尽くされている。
  周囲は小高い丘陵地で木が茂り、低地は畑、何でこんなところが別荘なの?
  おそらく地下水が豊富で入浴が楽しめる、町から離れ狩が出来るなど何らかの利点があったのだろうが不明。
   モザイクでこんなに様々な画が模様が描けるのかと感心する。
ローマ時代の別荘のモザイク画

〔島の東海岸に多い別荘地のひとつタオリミーナ〕
  海岸線から急な崖の上にコンパクトな町が乗っかって居る。
  崖の上の町からは、はるか遠くにエトナ山、眼下に青いイオニア海を眺望に収め、さわやかな風が吹き抜ける最高のリゾート地。
  
 海寄りの高台に円形の古代ギリシャ劇場。
 ローマ時代は円形闘技場があり観客は正面にエトナ山とイオニア海の景色を背景に歌と芝居を楽しめる。
古代ギリシャ劇場 エトナ山と海岸線

 島の東部はエトナ山(3323mの活火山)がそびえ、独立峰の裾野が緩やかに広がる 活火山で時々噴火を繰り返す。
 地形は丘陵地が発達所々に渓谷、果樹が多く、葡萄も特産でワインが有名。
 島の西部は丘陵地帯、高い山もなく、畑地が広がる。

 今回の旅ではシチリアに5月末の4日間滞在。
 もっとゆっくりシチリアを楽しみたい気分、田舎のゆったりした風情が残っている。

 ナポリ~アルベルベッロは又の機会に
阿保君の「シシリー島を訪ねて」を読んで(所感) 田中 征之
  阿保君の記事、HPで拝見しました。
 とても興味を引く良い記事でした。 ノルマン、ギリシャ、ローマ帝国の歴史的建造物、美術を見て、美術に造形の深い阿保君にとって満足の旅行だったと思います。
 記事を読んで現地を見ているように楽しませて貰いました。 私も下手な横好きで時々美術を見に行きます。特にターナーの絵にひかれて1年間に2度もイギリスに行きました。 ターナーは自然を描く画家として有名ですが、後年、歴史的場面を多く描いています。中でもネルソン提督が狙撃手に撃たれる場面が よく知られていますが、テートブリテン(ターナー美術館)に行った時に「ハンニバルが象の大群を引き連れてアルプス越えをする」 歴史絵がありました。奇想天外、壮大な歴史絵巻でした。
 そんな思い出もあって、阿保君の記事の中に「シシリー島に興味を持ったのは、カルタゴとの戦いとの場になった処を見たいという思い」 というところに特に興味を惹かれ、もう一度ポエニ戦争の歴史を紐解きたくなりました。

  インターネットでポエニ戦争を検索したところ、何と紀元前のことで、BC264年~BC146年カルタゴが滅びるまで地中海の覇権を巡って カルタゴとローマの間で3次に渡って戦争が行われたとのことでした。
 シシリーを主戦場として行われたのは第一次ポエニ戦争(BC264~BC241年) でローマ側の勝利に終わり、ローマは多額の賠償金と2つの島を属州として得ました。その後、カルタゴは約20年隠忍自重してヒスパニアで国力を養い、 勇将ハンニバルの下で第二次ポエニ戦争(BC218~BC241年)を行いましたが、約20年の戦いの末、これもローマ軍の勝利に終わりました。

 私の見た絵はこの第二次ポエニ戦争の時のことで、突然現れた象に「ローマ人もビックリ」だったことでしょう。
 この象37頭を引き連れてのアルプス越えは筆舌に尽くしがたい難行だった様で、多数の将兵と象を失いました。何故多数の象を連れてアルプス越えをしたかは分かりませんが、このような史実を知っていれば、あの絵を見たときの感慨はもっと大きなものだったろうと残念です。
  初めに阿保君の記事を読んだときに、さっと読んだので、ポエニ戦争に破れ滅んだカルタゴの遺跡を見ることかと勘違いしていましたが カルタゴが滅んだのは第三次ポエニ戦争(BC149~BC146年)でした。
 カルタゴは第二次ポエニ戦争で破れ、また、多額の賠償金と在外領土の殆どを失いましたが、経済復興を柱に不死鳥のように甦りました。 これに対してローマは今度は徹底的に滅ぼすと言うことで、カルタゴの本拠地を包囲しました。
 カルタゴ側も3重の城壁に依り3年にわたって 奮闘しましたが、ついに破れ、市に放たれた火は17日間にわたって燃え続け、全てを焼き尽くしました。
 そのあと、ローマ軍に命じられたのは 燃え残ったものをすべて破壊することでした。かくしてさしも栄華を誇ったカルタゴも地上から消滅しました。

 前にTVで見た今のアルジエリアにあるカルタゴの遺跡も、地上には遺跡と呼べる物はほとんどなく、地面を掘ると焼け焦げた地層が出てくるので 本当に有った出来事と知ることができるだけのようです。
  国が滅ぶことの悲しさはいつの世でも同じ、「国破れて山河あり」どころか、すべて焼き尽くされ 当時の栄華を偲ぶものは何も残されなかったカルタゴの悲劇は胸を打つものがあります。

 日本も太平洋戦争に破れ、主要都市は大半が焼け野原となった状態から奇跡的な復興を成し遂げましたが、私にはカルタゴが重なって 見えるように思えます。
 夢々カルタゴのような運命にならないように、慎重な国の舵取りをしてもらいたいものです。

  私もいつかは行きたいとの思いはありますが、殆ど可能性はなく、阿保君の記事が出ることを期待します。
 
 次の記事を楽しみにしています。