42期 徒然草 | |||
皇居勤労奉仕に参加して |
後藤 健次 |
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〇 参加に至った経緯 今年の初め同郷同級生の友人から、皇居勤労奉仕に参加しないかとの誘いがありました。 勤労奉仕が行われている事は、新聞等で知ってはいましたが、その中身・実態は・余り承知していませんでした。 昨年春、叙勲を受けること事になり防衛省の伝達式の後、皇居において天皇陛下に拝謁することが出来ました。 宮殿地区の長和殿(一般参賀で陛下がお立ちになる建物)にある春秋の間で拝謁が行われるのですが、向かって左側にある南車寄から入り拝謁した後、同じ経路を通って退出する事になります。 宮殿地区のほんの玄関口には入れただけでした。 勤労奉仕では、普段は入れない場所での清掃とかを行うと聞きこれは是非参加したいと思ったのです。 平成12年12月、天皇皇后両陛下が茨城県阿見町に在る医療大学をご視察になられました。 阿見町役場の玄関先で町長等と一緒に並びお出迎えしたのですが、天皇陛下が私の前にお立ちになり、と列に対するねぎらいのお言葉をかけて頂き、大変感激したのを思い出します。 勤労奉仕では、ご会釈を賜ると聞き、もうすぐ退位される陛下に拝謁等を賜る最後のチャンスだと背中を押されたのが二つ目の理由です。 〇 勤労奉仕の始まり 戦後の混乱期に、宮城が荒廃している様子が国民に広く知らされたことにより、勤労奉仕団を誕生させ、それが定着していく事となったのです。 最初は、昭和20年12月8日から4日間宮城県の青年男女約60名により皇居の瓦礫片づけ、清掃等行われました。 この事を承知された天皇は奉仕団に会い、「ご苦労」とのお言葉をかけられたのです。 このような天皇と奉仕団との接触が、広く国民の知ることとなり、次々に奉仕希望者が現れ年々増加していったのです。 そして、全国の青年団等の次世代を担う若者たちにより皇居を再建する一助となる勤労奉仕がスタートしたのです。 その後、国は様々な面で活力を取り戻し、宮殿等も立派に再建されるのですが、勤労奉仕は変容し、天皇と国民の接触の場として、一般参賀とともに二本柱となってゆくのです。 〇 八王子勤労奉仕団 友人が団長をしてる八王子奉仕団は、初代の団長が、静岡県の奉仕団に参加し、人数が増えたことから独立して結成したそうです。 地縁・血縁或いは会社関連等のグループからなっているようです。 私のように初めての者もいますが、3回4回と参加している方も結構多く、感心させられました。 〇 奉仕活動の概要 ● 日程等 毎週4日間月曜からと火曜スタートの組があり、夫々4日間の活動となります。 寒い1月と暑い7・8月の時期は、休みを利用した学生等の若者を中心に受け入れているようです。 八王子奉仕団は、10月の第3週を希望し16日~19日に決定しました。 皇后陛下の誕生日が20日であられる事から両陛下のご会釈を賜れるとの判断からです。 最初の日、桔梗門から団まとまって入門し、門の脇の窓明館で4日間の活動要領等について説明を受けます。 集まったのは、11団体約400名でその多さに驚かされました。 ● 奉仕活動等 活動場所は、宮殿地区・吹上地区・江戸城本丸のあった東御苑地区及び赤坂御用地の4か所となっています。 奉仕作業の絡みからいずれかの地域を重点にされることもあるようですが、大半はすべての地域を万遍なく回るようです。 今回は、①宮殿地区 ②東御苑地区 ③赤坂御用地 そして④吹上地区の順に日単位での活動・見学となりました。 最初の宮殿地区は、写真撮影に適した伏見櫓をバックにした場所が含まれるため、まず記念写真の撮影からスタートしました。 個人での撮影は禁止されていますので貴重な写真となります。宮殿に戻り南車寄の脇の扉から中に入り正殿・豊明殿等の建物及び使われ方そして庭園の見学説明を受けました。
午前中は、見学等で終わり、午後再度宮殿地区に向かい庭園の草むしりや清掃等の奉仕活動を行いました。 宮殿は、外からしか見学できませんでしたが、荘厳のなかにも随所に日本の伝統美を感じさせるすばらしいものでした。 もし雨などにより外の作業が無理な場合、宮殿内部の清掃等により稀には入れる場合があるようです。 二日目は、東御苑地区が対象となり、本丸及び二の丸の見学の後,本丸跡地の清掃等の奉仕活動を行いました。 この地区は、日頃から一般公開されており私自身も2度目であり、特に目新しいものはありませんでした。 この日も公開されていましたが、外国人の来訪者も結構多かったようで、人気スポットになっているようです。 三日目は、赤坂御用地での奉仕活動となりました。 11月の初旬に此処の庭園で園遊会が行われるため、様々な準備が行われていました。 その一助として庭園一帯の清掃等が組まれたわけです。 また、写真のポイントでもあるため、まず記念撮影からスタートとなり、園遊会の招待者がここから庭園の周りに順に並ぶわけです。
御用地は、青山・四谷等の街に隣接し周囲を道路が巡っています。 その道路を通ったことはありますが、中に入って気付かされたのは中央一帯が、大きな窪地・低地となっている事です。 そこには、3っの池を擁する立派な庭園が広がっていました。 ご存知のように、徳川御三家の紀州藩の中屋敷跡地ですから、歳月を積み重ねた立派さに感じ入ったものです。 御用地には、東宮御所と皇族方のお住まいが、道路沿いの高い地域に建てられているそうです。 正門は、明治記念館側にもうけられてあり、そこを入ればすぐに東宮御所となっています。 最後に御所の車寄せの前で、皇太子殿下のご会釈を賜りました。 皇太子は、若々しいお姿で、笑みをたたえられ奉仕団の前に立たれましたが、間もなく立派にご即位されることが容易に想像できます。 四日目は、午前中に天皇皇后両陛下のご会釈を賜ることになりました。 宮内庁の建物の傍にある蓮池参集所に同じ日程の5個の奉仕団が集まり、各奉仕団長から都道府県名と参加人数をご報告申し上げると、両陛下からご下問があります。 熊本から参加した奉仕団に対し、復興状況をお訪ねになったように、災害等に対しては大きな関心を持たれておられるようです。 万歳三唱をもって終了となりました。 午後は、吹上地区であまり公開されて無い場所で楽しみでもあります。 時間の関係から見学が主体となりました。まず、宮中三殿は、賢所、皇霊殿、神殿の総称である等の説明を受けながら静寂で鬱蒼とした森の中を巡りました。 ここで年間数十回の宮中祭祀が行われているそうですが、戦後天皇家の私的行事として扱われるようになったため目に触れる機会がほとんどなくなってしまいました。 皇室は、祭祀に明け祭祀に暮れるような祈りの日々を送っておられるのです。 宮殿に飾られる盆栽は、皇居を訪れる国賓の方々が大変興味を示されるそうですが、普段は吹上地区にある大道庭園で大切に管理され守り継がれています。 門を入ると、いきなり玄関脇の大きな盆栽が目に飛び込んできます。 根上の五葉松だそうで、素人目にもその見事さが分かります。 最後に、吹上地区の奥にある水田に案内されました。決して広くはないが、立派な水田です。 天皇自ら毎年5月に苗を植え秋に収穫される光景はテレビでもお馴染みになっているところです。 見学の際はすでにお稲刈りは終わっていましたが、約百キロの収穫があるそうです。 ここから伊勢神宮への奉納と11月23日の新嘗祭へと続いてゆくのです。 新嘗祭は、一年中で最も重要な宮中祭祀だそうですが、瑞穂の国の長としてその伝統を連綿として受け継がれているのです。 半蔵門から乾門までの吹上地域は、御所地域となっており奉仕の対象外のため入れませんでした。 〇 勤労奉仕に参加して ● 一言でいうならば「ミニお遍路さんかな!」 お遍路に行ったことはありませんので聞いた話として想像するに、お遍路は歩いて歩いて巡拝するのですから、勤労奉仕も広い皇居内を歩き回りその先で奉仕活動を行う事から言えば似ているのかと思われます。 毎日1~2万歩程度歩きます。 若い者ならともかく高齢者のグループですからテクテク歩いたとしても結構疲れるものです。 奉仕活動も、あまり根を積めなくてもと言われますが、メンバーは心に秘するものがあってかそれなりに熱意を込めているようです。 ● 様々な自然や伝統を継承する皇居・皇室 皇居内を歩いてみると、かなり高台になっている。 武蔵野台地の東外れであり特に、吹上地区は昔の面影を残しているようです。 樹齢2~300年の樹木や新しい木々が生い茂っていますが、説明によれば多く見られる松は、被害を受けてないそうです。 昆虫や生物と古来からの植物が調和しながら共存し、見事な自然を維持しているものと思えます。 説明によれば祭祀はを、最も大切にされておられるようですが、伝統や古来からの文化そして自然等を継承されている一端を垣間見た感じです。 〇 終わりに 我々のグループは、高齢者が多く活動とか移動すること自体はテキパキとはいきませんでしたが、拝謁を賜ったことや皇居のかなりの地域を見学できたことから、大いに満足して奉仕活動を終えたものと思えます。 勤労奉仕は、参加する時点で75歳までとなっているそうです。 まだまだ、奉仕活動のチャンスは残っていますよ! |