42期 徒然草 テクテク歩き
知ってる? 「佐々木 信綱」

 先日、東海道「石薬師宿」を歩いてきました。三重県にある44番目の宿場で、四日市と亀山の間にある小さな宿場でした。
 説明によると、四日市と亀山の間が長距離であったため、石薬師の門前町を宿として新たに設置したとか。

 東海道を歩く時、道中の一里塚、各宿場の本陣、問屋、立場等当時の建造物(殆ど残ってはいないが)あるいはその記念碑、記念館を見て回るのだが、この宿場では本陣跡(碑)と石薬師寺があるのみで見る物はないという前提でサッと通り過ぎようとした。

 普通、宿場では、その入口付近に宿場についての説明板あるいは地図等があるのだが、この宿場では、佐々木信綱の歌カルタの説明しかない。
 『石薬師宿 信綱かるた道 「信綱かるた」から選んだ36首の歌がここから南1.8キロの間に掲示されている。』とある。

 ところで、「佐々木信綱」って誰だ?

 この宿場を歩くに先立つ下調べでは、この名前が出てきたのかどうか記憶に無い。
 
平安時代の歌人?いや江戸時代の文学者か?あまり宿場とは関係ないだろうから、「まーいいか」と歩く。しかし、目に触れるのは、この佐々木信綱の歌カルタ板ばかり。

 宿場の中ほどに、「佐々木信綱記念館」があった。誰だか知らないし、素通りしようとは思ったが、一応説明板をみる。
 「当資料館は、明治、大正、昭和にわたり、歌人、歌学者として万葉集研究の最高峰を極められた佐々木信綱博士の業績を・・・・(略)。」(説明板は資料館、館のパンフレットや観光案内は記念館)

 やはり東海道とは直接関係ないな、と思ったが「入場料:無料」とある。そうか、無料なら休憩方々見てみるかと入場した。(人間性に問題がある!)

 展示物を見て分かったのは、歌人として「夏は来ぬ」の作詞、歌学者として「校本万葉集」全25冊を刊行する大業等を成し遂げた人である。

 館員の方も親切で、お話の相手をしてくれたり、隣の石薬師文庫(佐々木信綱が寄贈)や生家、蔵等の見学も出来るようにして頂いた。佐々木信綱は、6歳までこの地に住んでいたとのこと。生家の庭には、「夏は来ぬ」に出てくる「卯の花」が美しく咲いていた。


 ここまでの文では、何のためにここに「佐々木信綱」を取り上げたのかと思われるでしょう。

 感動したのは、佐々木信綱は「水師営の会見」を作詞した人だったのです。しかも、堂々とこの記念館にその関連資料が展示してあったことです。
 一般的に、このような記念館では、軍事関係のものはさけて展示することが多いという認識を持っていたのですが、結構スペースをとって展示していました。
 尤も日露戦争についてはあまりこだわりがないのかもしれませんが。

 「佐々木信綱は作詞の依頼に対し、初めは戦記ものは作詞者の心が表せないから嫌だと断ったらしい。再三再四の依頼に水師営の会見を調査したところ、乃木大将が会見する民家で、銃弾で激しく傷ついたナツメの木を目にし「お前も此の戦闘の被害者か」と頬をつけ木を撫でた逸話を耳にし「これだ」と思い書き上げたとのこと。
 2番は終戦の会見には必要ない詩のように思えるが、この逸話から乃木大将の人柄を表す大事な詩だった。」

 また、「佐々木信綱は、我の武士道と敵の騎士精神との合一として謳い揚げた」とある。

 
 帰宅後、防大時代に使っていた「玲瓏」(歌集)を開き、「水師営の会見」を確認したが、作詞者の名前は記載されていなかった。

「水師営の会見」

1、旅順開城約成りて  敵の将軍ステッセル  乃木大将と会見の  所はいずこ水師営

2、庭に一本なつめの木  弾丸あともいちじるく  くずれ残れる民屋に  今ぞ相見る二将軍

3、乃木大将はおごそかに  御めぐみ深き大君の  大みことのり伝うれば  彼かしこみて謝しまつる

4、昨日の敵は今日の友  語る言葉も打ち解けて  我は称えつかの防備  我は称えつ我が武勇

5、かたち正して言い出でぬ  「此の方面の戦闘に  二子を失い給いつる  閣下の心如何にぞと

6、「二人の我が子それぞれに  死所を得たるを喜べり  これぞ武門の面目」と  大将答え力あり

7、両将昼餉共にして  なおも尽きせぬ物語  「我に愛する良馬あり  今日の記念に献ずべし」

8、「厚意謝するに余りあり  軍のおきてにしたがいて  他日我が手に受領せば  長くいたわり養わん」

9、「さらば」と握手ねんごろに  別れて行くや右左  砲音絶えし砲台に  ひらめき立てり日の御旗