42期 徒然草 フール・ストレート

 みなさんは、父と母のどちらが好きかと尋ねられたとき、即座に父が好き、あるいは母が好き、と言える方は何人くらいおられるでしょうか。
 人には様々な家族模様があるのだから、そんな単純な問い方には無理があり、答えようがないと困惑される方々も多いかと思います。
 問い方の適否に頓着せずに申せば、私は子どものときから文句なく母が大好きでした。
 母は、僕のことを何でも分かってくれている、僕の願いは可能な限り聞いてくれる、人の道も男の心のありようも教えてくれる、といつも母を身近かに感じていました。
 母とは一生涯ずっと友だちだと思って大人になり、この歳に至っています。
 そんな母の思い出を書かせていただきます。

 母は病弱な子どもで、小学・中学とまともに学校に行かなかったそうです。でも学校に行かないのに、算数だけはよく出来たそうです。家が貧乏なことは分かっていたので、進学は諦めていたそうです。母の両親がこれからの世の中、学校には行っておくべきとの考えで、女学校に行くチャンスをもらったそうです。
 このとき母は、自分は勉強には全然自信がない。「試験のない学校を探そうと思った。」と話してくれました。私は世界で一番大好きな母の話なので、母への失望は口にせず、内心で「自分は試験が一番難しい学校に挑戦して、見事合格したい。」と思っておりました。
 このとき、私は小学5・6年か中学1年生でした。

 35歳頃に突然、「ああ、母には及ばなかった。僕に母のような頭の良さがあったなら。」という思いが私を襲いました。例の選抜試験に何度も落ちて受験資格も終わったときでした。

 私は、子どもの頃は、母の言葉をやる気に欠ける逃げの言葉と受取っていたのでした。
 母は、貧乏で諦めていた進学の道が開いたとき、自分の実力のほどと、何が現実的であるかを知っていたのだ。美しいだけの理想には溺れてはいなかったのだ、と悟ったときは、すでに私は青春の頂点からの下り坂を歩いておりました。

 母は、旧名称ですが文化服装学院という東京の洋裁学校に行ったのでした。
 母の生涯の喜びは、ヘレン・ケラーさんのオーバーコートを仕立てて、ケラーさん直々にとても着心地がいいと言っていただいたことのようでした。
 私は、人間の器量も知性も母に及びませんでした。
 
 昭和55年3月下旬津田沼の官舎に、3月7日生まれの母の還暦の写真が届きました。
 私は写真を見て「あ、お母さん、もうすぐ死ぬのだ。」と思いました。
 私事に関し慎みに欠けるもの言いですが、あまりにも気品のある写真だったからです。

 母は同年5月16日夜、自宅兼洋裁学校の2階の教室で、一人で仕事中に脳卒中で逝きました。