42期 徒然草
感情と理性 フール・ストレート

 私は、子どものときから一喜一憂の激しいとても感情的な人間でした。
 どんなふうに感情的か。
 何事においても自分が優越的で衆目が集まれば、喜び、得意げに振る舞い、果ては慢心する。
 自分が劣っていればすぐ劣等感に陥り、卑屈になる。
 一旦拗ねると気分の乱れが長く、自力では自分の気持ちを明るく立ち直らせることができませんでした。

 理性・理知的と感性・感情的という言葉を知ったのは中学生の頃かと思います。
 学校でも世の中も理性的とは頭脳明晰でおとな、感情的とは単純思考で幼稚、理性的な人間は一段と高級な人間であるという雰囲気があったように記憶しています。
 私は、理性的な人は秀才、感情的な奴はバカと受け止め、理性的な人間になりたいと願いました。
 他人の目にあいつは出来る男と思われたい、という感情的な願望でした。
 そんな私が持って生まれた理知的なものといえば、直感だけでした。
 何かを問われると、私は、直感的にものごとの答(に近いもの)を感じるのですが、その根拠を端的・簡明に説明することは不得手、すなわち論理的思考が貧弱でした。
 そんな直感的感性の私が、昔に感じて、いまも十分な根拠を見つけてはいませんが、やっぱり正しいのではないかと思っていることを、お聞きいただきたいと思います。

生命(生きている命)の性質

 人間も動物も、生き物には喜怒哀楽の情、つまり感情があるようです。
 私には、喜怒哀楽の情はどこから生まれるのかという理性的な発想センスはなくて、自分の命が直接そう感じているからだ、それは命というものが最初から持っている性質なのだと、勝手に得心していました。

 多くの人は、褒められたり、人よりも優れていることが分かったとき、予想外の幸運を得たとき、喜んだり、自信をつけたり、幸福や心の充実を感じるようです。
 私は、人の幸福感や心の高揚は、各人の命が喜んでいるからだと直感していました。

 逆に人に誤解されたり、自分の劣等性を感じたり、無視されたり、理不尽な力で屈服させられたとき、多くの人は屈辱や悲哀、究極的には孤独感に苛まれます。
 私は、それは、自分の命が苦しくて嫌だと感じているからだと思っていました。

 今日の科学は、当たり前のことについて、それはなぜ? と根拠・本質を改めて問い直すことによって飛躍的な発展を遂げて来ました。
 私には、当たり前のことに潜む真理を問うセンス、は乏しかったようです。
 前述と同じことを繰り返すことになりますが、
  生命は、好きな(楽しい)ことを求める。生命は、嫌なことは避けたいと願う。
 私は、このことが生命の性質ではないかと、感じて来ました。 
 世の中の事柄の発生原因は、究極的には、生命の性質に帰結するかと考えています。

 生命は、自然の中の一存在であります。
 私は、各種多様な生命が好きと嫌いを最終の選択基準としてそれぞれに生きているのではと感じています。
 自然は、生命だけではないので、各種生命の好き・嫌いの生き方に関係なく、万物に作用・影響します。生命を含む大自然は、自分の摂理で動いていると感じます。結果として、天変地異等の形である種の生命を繁栄させたり、滅ぼしたりすることも起こるが、それは自然の意思ではなくて、単に大自然が自分の摂理で動いているだけと思います。
 すると生命は、自分より大きな次元の自然に対しては、限界があることになります。
 つまり、各種の生命は、大自然に対比して、死すべき存在かと思います。

 最後に、私は理性的な人間になりたいと願って来ましたが、今でも自分の感情を上手に扱えません。
 あるとき、
  感情は大海、理性はその海に浮かぶ一滴の油
 と思い至ったことがあります。
 これで、理性が感情よりも高級だから、人は理性的であるべきというこだわりから解放されました。
 一滴の油が、自分が浮いている大海を意のままに制御することは、不可能に近いほどの困難だと思うようになりました。

 このことを、機会があってNHKを通じて養老孟司さんにお尋ねしたことがありますが、感情と理性はどちらが上位かは、回答していただける質問ではなかったようです。

 最近、「進化心理学」という視点から、人間の感情を研究した本を見つけました。
 感情と理性は完全に分けられるものではない、感情が思考を方向づける、感情は生きのびるのに必要な機能として、太古から長大な時間をかけて積みあがった、ということが書かれています。

  ★「人間は感情によって進化した」 石川 幹人  ディスカヴァー携書 ¥1000

「感情と理性」の投稿を読んで思うこと 田中 征之

 今年は、有意義なお話を多く投稿していただき、ありがとう御座いました。

 今日のお話も、人間の本質を考えるお話ですね。人そのもの、感情・理性・個性は一体どこから来ているのか不思議です。
 多分、脳の何処かが司っているのでしょうが、その人のDNAが全て動かしていると言う話もあります。

 文中の「生命は好きなことを求める、生命は嫌なことを避けたいと願う」ということは、確かで、それはDNAの自己保存のためと私などは思いますが、それにしては敢えて危険に身を晒す人もいるし、人を殺めたり、酒・麻薬などで自らを破滅させる行為もあるし、この説も矛盾があるかも知れません。貴方のお話のように全て自然の摂理で動いているのでしょう。

 「感情は大海、理性はその海に浮かぶ一滴の油」という事は確かに救いになります。人間はやはり感情の動物、それが人間たる由縁なので豊かな感情(感性)を持つことはとても大事なことなのですが、私なども若い時は感情が抑えきれなくなって、時に大爆発、御蔭で人間関係を悪くし、何故、あんな事を言ってしまったのだろうと悔やむ(反省)事しきり、と言うことがしばしば有りました。
 感情と言う大海を一滴の理性でコントロールするのは難しいことです。この感情と理性をある程度節調出来るようになるのが望ましい姿でしょうが、孔子でしたか、四十にして惑わず五十にして天命を知るというようなことを言ってますが、それを遥かに超えて、齢、七十に近くなっても、未だ感情を上手くコントロールできないのも人間です。七十になつて心の欲するままに動いても度を過ぎないなどとは、普通の人間ではとても無理と思いました。