42期 徒然草 | |
読書のすすめ(3) | 小栁 毫向 |
久しぶりにすごいな、という本を読みました。 増田俊也作「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(新潮文庫)。 作者は多くの人に対する取材、資料集め等を含め本書を書きあげるのに18年もかかったそうです。記述態度は公正・中立であり内容は信ずるに足るものと思います。 木村政彦は昭和12年全日本柔道選手権で優勝以来15年間不敗、「木村の前に木村なく木村のあとに木村なし」と言われた柔道界では伝説上の人物です。後にプロレスに転向、理由は愛妻が結核に罹りその治療費を稼ぐため。 木村が力道山と戦ったのは昭和29年、当時は一般家庭にテレビが普及しておらず、町の電気屋さんや喫茶店でテレビのあるところはプロレス中継があると黒山の人だかりができたものです。私も近所の電気屋さんが用意したテレビでこの一戦を見ました。60分3本勝負で一回戦で力道山は木村をノックアウト、木村は二度と立ち上がることができずあっけなく試合は終わりました。「やっつぱ、力道山は強いなァー」というのが当時の印象であり力道山は国民的ヒーローとなりました。力道山の前に木村は敵にもなりえない、そう思っておりました、この本を読むまでは。 なぜ木村は負けたのか。おおよそプロレスには真剣勝負というものはないそうです。事前に戦うシナリオを決めその通りにレスラーは戦う、いわゆる八百長です。木村、力道山戦も一回戦は力道山、二回戦は木村が勝ち三回戦は引き分けでドローというシナリオができていました。一回戦木村は力道山に勝たせるべく力道山がやり易いように対応していた。つまり力道山が空手チョップを打てばそれをガードすることなく、むしろ打ちやすいように力を抜いていた。打つ方も相手にダメージを与えるような打ち方はしない、それが八百長というもの。ところが力道山は途中で一方的に真剣勝負に切り替え木村にダメージを与える打撃を始めた。一発目で木村は軽い脳しんとうを起こしそのあと殴る、蹴るの執拗な連打を浴びて立ち上がることができなくなった、それが真相のようです。 油断があったとしても負けは負け、屈辱を感じた木村はその後懐に短刀を忍ばせ力道山を殺すべく力道山を付け回したという。 私は木村先生に一度だけではあるが稽古をつけて戴いた。防大柔道部は夏合宿は東京の一流大学と合同合宿をしていた。私が学生のときは拓大と二度合宿をした。3年の折の合宿の最終日母校拓大の師範をしておられた木村先生が顔を出された。その頃の拓大は全日本学生大会で優勝するほどの強豪校、私はなるべく拓大の連中と当たらないよう立ち回っていたが、ある時ふと木村先生と目が合ってしまい、おいでおいでと手招きされたものだから逃げるわけにもいかず寝技の稽古をつけて戴いた。うまく首絞めが入り、よしもらったと思い必死になって絞めた、もう参ったをするだろうと思いながらふと木村先生の顔を見ると平然とした顔をしておられる、そのうち拓大の猛者連中が2人3人と周りに集まりじっと小生の顔を見る、これはいかんと思いあわてて絞めを解き、有難うございましたと一礼して稽古を終えた。当時私は80キロ近くの体重があり、バーベルも100キロは挙げていた。それでも木村先生の首を締めあげることができなかった。その頃木村先生は48歳であったと思う。 この本を読んで知ったことだが、昭和39年東京オリンピックが行われた、その直前ソ連の選手が拓大に来て練習をしたが本番でメダルを取った連中が木村先生に子供扱いをされ、木村先生は汗すらかかなかったという。 神永がへーシングに抑え込まれた試合は皆さんも覚えておられるのでは、柔道連盟はへーシングに誰を充てるか迷ったそうだ、当時では神永か猪熊しかいないのだが、どちらにしても不安があり木村を当てたらどうだ、ということも検討されたが木村は柔道界から破門されておりこれは実現しなかった。後にへーシングと戦ったらどうなるかとと聞かれた木村は「う~ん、2分くらいかかるかな」と答えたそうだ。 この本を読み、そして小生の拙い経験から「木村の前に木村なく木村のあとに木村なし」は不滅にして真実の伝説であることを確信した。 |
読書のすすめ(3)を読んで(感想) | 田中征之 |
早速、読ましていただきました。 柔道界の伝説の人、木村政彦氏の話の読後感ということですが、実際に小柳さんが防大柔道部の時に稽古を付けてもらったそうで 実感がこもっています。 ヘーシンング氏と東京オリンピックで戦ったらどうだったか、神永氏が破れて、柔道が世界柔道として 発展する「きっかけ」となったことはありますが、当時は柔道界に残念な思いが大きく、木村戦わばとの思いがあったようですね。 「木村の前に木村なく、木村のあとに木村なし」と言われたほど強かったことは始めて知りました。 その方がプロレスに転向した理由が奥さんの病気の治療費のためと言うことでその後、力道山の相手として活躍したが、確執があったということですね。 当時はTVの出始めでプロレスは大人気、私も父に連れいってもらい「喫茶店のプロレス中継あります」で見たことがあります。その時は真剣勝負と思っていましたが 後年、ショーだということを知りました。 それでも「ブッチャーの流す血は本物か」と言うことを確かめたくて、後楽園のリングサイドの券を買って見に行きました。 これは本物の血でしたが、卵の殻の薄膜を貼るとすぐ傷口がつくそうでなるほどと思いました。ショーとは分かっていてもリングサイドで見る迫力はすごいもので これはある程度約束事を決めて、手加減しないと、いくら鍛えているとは言え怪我をする危険性は大きいと思いました。 これを当時既にスターだったとは言え 一方的にやった力道山に対して怒るのは当然、力道山の人間性を疑います。 彼の末路が刺されて死んだという悲劇的なのもそんなところがあったのかもしれません。 ぐっとこらえた木村氏の方が遥かに強く、人間的にも大きかったということでしょう。そんな読後感を私も持ちました。 |