42期 徒然草
二十三回目の電話コール 谷口 日出男
111

 救急車で患者が運ばれてきた。
 よくあることで別段珍しいことではない。運び込まれたのは、おばあちゃんでなんでも畑仕事中に倒れて胸を打ったとか、この寒空にその年で大した頑張りである。尤も付き添ってきた息子に言わせるとその頑張りがハタ迷惑だとか、おばあちゃん、叱られた子供みたいにションボリとしている。
 わかるなぁー、その両方の気持ち。骨折の疑いがあるということで病院の車で、近くの総合病院に連れて行くことになった。俺がその運転手役。付き添いの看護師とそのおばあちゃんをストレッチャーに乗せて、運ぶ。建て替えが終わったばかりのその病院の待合室は、きれいで広い。そこで俺は、待つ。カウンターに、珍しく日めくりのカレンダーがある。
 1月11日(金)である。

 111の数字の並びかと思ってたら、そうか、今日はオヤジの命日だったんだと想い出す。夕方誰もいない静かな待合室であれこれ思いを巡らす。
 今振り返れば、あの時は、大変だったなぁと思いはあるも過ぎてしまった昔の出来事、その苦労の実感はもうない。その後は、オヤジの命日ごとに実家のおふくろに電話してた。しかし、それもおふくろが2,3年前に施設にはいって以来、電話をすることもなくなり、とうとう、今年の命日は、一日が終わる夕方になってやっと思い出した。
 妻の方も、只今、孫の守りで不在、それで両方とも失念していた。そのカレンダーを見る機会がなかったら、何も気が付かないうちに今日は終わったかもしれない。その運び込まれたおばあちゃんに感謝である。まだ処置室からは誰も出てこない。
 想いは続く。何年か前に、書いた散文に思いを巡らし、過ぎ去った昔を思い出す。
 そういや、俺もとうとうオヤジの享年に達したのか・・・
 同輩諸氏、どんな思いで自分オヤジの逝き方を迎えているのかなぁ・・・
 以下、7年前に書いたオヤジへの思い出である。
 
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H18.1.11  
二十三回目の電話コール

 "忘れちょらんかったね・・・。"朝、電話口から聞こえてきたおふくろの第一声はいつもの言葉だった。ここ数年、同じ言葉を聞き今回もそうかなと予想し、次を待ってたら矢張り同じ返事だった。
 "忘れちょろか。"と返事するも何年かに一回は忘れそうなこともあった。今回も妻から何度か言われ気に留めていたので兄妹で最初のコールが出来たようだ。朝七時、出勤前に電話する。電話口に弟嫁が出て"やっぱり、日出男兄さんからが一番最初ですよ"とおふくろを呼ぶ時に語り掛けるのが受話器を通して聞こえてきた。ここ数年、いや二十年以上続いているオヤジの命日の朝の光景である。
 "忘れちょらんかったね・・・。"のおふくろの第一声も、ここ数年来繰り返される言葉である。もう、今年で二十三回目になるオヤジの命日の朝の電話コールである。

 "帰ってあげたら?"宮崎に住む兄貴から親父の方が危ないと聞き、帰省するかどうか迷っている時に台所に立った妻から煮え切らないでいる俺への返事だった。"帰るといってもなぁ・・・"とまた迷い言が出る。
 "いま帰ってあげないと・・・"とその時なぜか妻の涙ぐんでる姿が思い出される。二度目の北海道勤務それも同じ上富良野、前に中隊長として勤務した戦車大隊に今度は幕僚として、それも一番忙しい作戦幕僚の職務を前年の八月に仰せつかり、最初の正月を迎えた昭和五十七年の一月であった。
 外は、連日マイナス二十度近くの寒さを示していた。
 オヤジの身体が悪いのを身に沁みて感じたのはいつだっただろうか?昭和四十二年の防大の卒業式におふくろと横須賀まで来てくれ、そしてその年の秋の久留米での幹部候補生学校の卒業式に二人してまた来てくれた。二人は、その帰りに熊本の日奈久温泉に寄って帰るというので同期の仲間と国鉄久留米駅に見送りに行った。その時、汽車の窓から見るオヤジの顔が何か小さくなったような感じを受けた。その時が弱りいくオヤジを感じた最初かなぁ・・・。
 (あとでオヤジが日奈久温泉で気分を悪くしたような事を聞いたがそれは誤聞だったか・・・。)
 
 明治四十四年生まれのオヤジなので昭和十七年生まれの俺は、オヤジ三十一歳の時の子供である。
 久留米駅でのその時のオヤジは、五十五歳だったか。最初の赴任地は熊本の戦車部隊だった。幹候校を卒業した翌年の四十三年ころ 宮崎延岡での秋祭りに自衛隊が参加し、俺も戦車二両引き率れて、そのパレードに参加した。たくさんの見物衆の中からオヤジの顔を見つけ、戦車の車長席から挙手の敬礼をするとオヤジが照れくさそうに、しかしあの目尻を下げた顔に笑みをいっぱい溢れさせ、チョコッと手を上げた。 周りからは、一斉に拍手が起こっていた。何も俺のそのオヤジへの敬礼動作にしたのでなくて自衛隊の行列が通過するとみんな拍手をしてくれていた。きっと俺のその挙手の敬礼をみんなへの挨拶と取ってくれていたんだろう。しかもその当時は米軍供与の小粒のM24戦車とはいえ、自衛隊パレードの華の戦車だったから・・・。
 上下つなぎの戦車服を着て、ゴーグル付の戦車帽をかぶり、戦車職種を示す橙色のマフラーをし、肘まで隠れる戦車用の手袋をし、腰には拳銃をぶら下げて戦車の上から手を振ればちょっとしたスター気取りであった。

 それから数ヶ月して帰省した時は、オヤジは病院のベッドだった。オヤジが入院していると聞き予想もしなかったことなので正直、驚いた。その時が、肝臓での最初の入院だったのかな。ベッドで見るオヤジは優しい顔でまた他人の様でもあった。その時何を話したのかよく覚えてないが宮崎のその病院のベッドに横たわるオヤジを見て、肉親がはじめて入院するのを体感した。

 明るいきれいな病室だった・・・。あれは、小学二、三年生の頃だったか、オヤジが急性盲腸炎で入院した時に、兄貴と弟との三人でバスに乗って宮崎市内のその病院まで見舞いに行ったことがある。渡り廊下の潜り戸を開け、病棟に行った。病室がなんとなく薄暗かったのだけが覚えている。浪人中によく読んだ原田康子の挽歌とか他の小説で描くところの結核病棟のあの暗さである。そんな中、介護しているおふくろの白い割烹着姿だけが目に付き、何か自分の母親でないような照れ臭い思いがした。鼻にツーンとくる淡い残像がある。いつも継ぎの当った色褪せた絣のもんぺ姿しか見てない母親が真っ白なそれも首から手首まで覆っている割烹着姿に幼心に目が眩んでいたんだろう。よその上品な人みたいで"かぁちゃん!"と呼ぶには子供心に気が引ける感じだたったかもしれない。折角見舞いに行ったのに母親の記憶だけがあるだけで残念ながら、そこでオヤジがどんなにしていたかは全然記憶がない。そして今度、陽が射し込み、明るい病室風景から見れば盲腸炎での入院光景は遥か遠くの昔の想い出となった。それからかそれともその前からなのか病院通いが続き、何度か入退院を繰り返す病気を抱えているオヤジがいた。

 "あぁ、来るな"と恐怖(?)を感じた途端、畳に投げつけられた。小さいながらもいつものように俺のスネた態度にオヤジが爆発したのだ。怒られると怖かったなぁ。ある時は、上のからいも畑でからいもを取った後の畑でオヤジと子供達とで「走りぐら」(徒競走)をしたこともあたった。 

 元気で健康だった人がそうでなくなるのを感じさせる一枚の写真が手元にある。妻となる彼女を連れて帰省した時のオヤジと彼女のツーショットである。遠慮がちに、彼女の肩に置いた自分の手を意識してかオヤジが優しく写っている。あの小さい頃怖かったイメージは全然ない。丁度、今の俺と同じ六十,一歳の頃の写真か・・・。同じ年頃とはいえ今の自分と全然比較にならない穏やかな顔がそこにある。俺なんかとは違い、かって日本が経験したこともないような激動の時代の中、私生児として生まれ、孤児院での育ちと、親の温もりを全然味わうことなく、それこそ小説でも書けそうなその誕生から成長するまで人生の試練を通り抜けた来たオヤジの一生は、どんな思いだったんだろうとこの年になってふと頭を思い巡らす。オヤジとゆっくりと語った覚えはない。そんな人間関係でもなかったしまた遠くに離れ離れに住んでればその機会もなかった。 
 
 しかし、自分がオヤジの年齢に近づくに連れ、あの時、オヤジはどんな思いで俺を見てくれていたんだろうと聞いてみたくなる時がある。高校時代、大学受験を目指すこともなく、いつまでもサッカーに遊び呆けている俺を夕闇迫るグランドの片隅でジッーと見ていた時、高校卒業後は、ブラジル行きのためにはいった研修先でその望みが挫折し、あの宮崎のとっばしの都井岬の土方現場に迎えに来てくれた時や、そしてみんなが貧しいあの時代、浪人も珍しい田舎で、二年間もどっちつかずにいる俺を見てどんな思いだったんだろう。そんな過ぎた昔の事を聞いてどうもなるわけでもないが自分がその年になり、自分の子供を見る時にオヤジはどうだったんだろうという思いになる。

 自衛官として任官以来、俺達の全国流浪の人生に併せて、行く先々におふくろとある時は今は亡き岐阜のおばさんたちと足を運んでくれた。その時オヤジは、糖尿病は腹を空かせたらいかんとか飴玉がいつもくわえていた方がいいとかでこまめに自己管理をしていた。また俺も何度か実家に帰省し、弟親子に囲まれたオヤジが例の糖尿病対策のためインシュリンの注射を打つ姿を見た。そんなオヤジの姿を見ていたがそれがやがて人生の終焉を迎えるオヤジとは兄貴の電話を聞いててもピンと響かなかった。尤も、オヤジの養父だった祖父が亡くなって以来、肉親の死は直面しなかったことも影響しているのかもしれない。
 
 帰ることにした。雪深い上富良野の官舎から親子5人旅立った。千歳空港まで多分汽車を乗り継いで行ったんだろう。それとも誰かに千歳空港まで送ってもらったか、その時のこまかい記憶はもうない。長男九歳、長女八歳、次女四歳だったか・・・。今思えばその時帰る旅費がよくあったなぁと思う。そんな蓄えをしていた妻に感謝である。
(葬儀がすんでオヤジの言い遺した中に、頂いた香典のうち困っている子供にも少し分けなさいということでそこでおふくろ兄弟のいる前で俺だけが帰りの旅費を貰ったのを思い出す。)

 宮崎行きへの乗り継ぎのため羽田空港に到着。もうすでに午後三時過ぎだったんだろう。そこで初めて宮崎に電話した。上富良野で、途中の乗換駅でそして千歳空港で電話する機会はあったのにそれまで電話もしなかった・・・。みんな病院にいるのだろうと思い、病院へ直接電話した。
 女性が電話口に出た。"谷口さんは、もうお帰りになりました"なんのこっちゃかなと思い、自分が息子であることと東京からいま電話していることを告げると慌てた声で丁重な謝りの言葉のあと"今朝方亡くなられ、ご遺体は本庄の方に帰られました"と宣告あり。ピンと来なかった。待合室の妻にそのことを告げ、子供達にも"おぢいちゃん亡くなったよ"と言うも気持ちが上滑りしている感がした。そして何時間後、どっぷりと暗くなった宮崎空港に降りたった。
 早朝に上富良野を立ち夜になってようやく宮崎に辿り着いた。

 憲ちゃんが車で迎えに来てくれていた。本庄への車中、妻も子供達もさすがの長旅に疲れたのか静かである。憲ちゃんが色々と話をしてくれる。マイナス二十度以下のところから一挙にプラスの十四,五度あるようところに来たので雪国で履くブーツの中の足がやたらとむず痒い。あぁ、普通の靴も持ってくれば良かったのになぁとこの時間帯どうでもいいようなことが気になった。 

 オヤジが最後に入院したのはいつごろだったのだろうか?年の内から入院してた様な気がするが詳しくは思い出せない。日本の端と端に住んでれば身近に接することもなかったので細かいところは体感出来なかったんだろう。従兄弟がいま、お通夜で沢山の人が来ていると教えてくれた。 
 
 家に着いた。お通夜はすでに終わっていたがや近所の人がまだ沢山残っていた。その中から"ひでちゃん、帰ってきたつね。北海道からのさんかったちゃつね"と声掛けられる。お通夜が散会した後のちょっとした手持ち無沙汰の時なのかみんなから注目されてる視線を意識しながら、何か気恥ずかしい思いで奥の座敷と居間をぶち抜いた祭壇の前に進む。おふくろさんや兄貴達が祭壇の前に座っている。おかえんなさぁい!と言われるも何言ってよいかわからずモゴモゴ。

 オヤジの顔を見る。鼻に綿が詰めてあり、また二年前の五十五年の頃、静岡の富士山の麓の須走に遊びに来てくれて以来の顔なのでこれがオヤジの顔なのかなぁと見るだけで涙も湧かず。人前だったので哀しみを感じるより気恥ずかしさの方が勝っていたか・・・。(もともと俺にはそんな素直でない一面がある。)
 尤も、オヤジが亡くなったことより久しぶりに帰省したことで気持ちはそちらの方に向いていた。

 夜、祭壇の前にみんなして布団を敷いて寝る。夜中にふと目が覚めると祭壇の前だけが明るい。何時頃だろう? そこでおふくろさんと長兄の語っている背中が見えた。そして明るい祭壇に飾ってあるオヤジの写真が目に入った。遠くから、何か言いたそうな優しい目をしている。その時、俺にも初めて涙が瞼の下から吹き上げるように湧きいでそして目いっぱいに覆い被さってきた。
 
 昭和五十七年一月十一日、オヤジ享年七十歳、俺、三十九歳の年だった。 
 
 そして平成25年の今年、俺もオヤジの享年に達した。