42期 徒然草
2017年の初詣 田中 征之


 あけましておめでとうございます。
 皆さんはどのように新年を迎えていますか。

 私の場合は、近くの神社への初詣から一年が始まる。

 初詣の先も長い年月の間に変わってきて、始めは明治神宮だったのが、両親が年を取ってからは府中の大国魂神社、この神社は歴史も古く武蔵の国の中心都市として栄えた。
 父が他界してからは、もっと近くで歩いても30分で行ける深大寺に場所が変わった。

 ここも名刹として知られてるが、お寺より深大寺ソバを出す茶店の方か有名だ。

 その母も年を取って深大寺まで歩いて行けなくなり、一番近場の勝淵神社に行く様になった。
 母が他界してからも勝淵神社だけは大みそかのジルベスターコンサートのカウントダウンが終わると自転車で行き(片道3分)、お参りして地元の青年団の提供する甘酒を頂く。
 焚火の火にあたって顔見知りの人がいれば新年の挨拶をする。
 帰りに古い破魔矢を返納して新しい破魔矢を買うという一連のルーチンで新年を迎える。

 今年は連日温かい好天だったので、2日に深大寺、3日に大國魂神社に初詣に行った。
 いずこもすごい人出で本殿に着くまでに規制されて15分かかる状態だった。

 いつも無信心な日本人も正月だけは変身して仏に手を合わせ、次には神様に手を合わせるという外国人もビックリの寛容さ。
この信仰の寛容さがあの厳格なイスラムと違って、日本人の良いところかも知れない。


「勝淵神社」

 この神社は仙川(本当の川)の屈曲部にあり、もともとまわりは田んぼで、木立の中にひっそりした村の鎮守様と言った神社だ。
 普段は参拝に訪れる人もまれで、宮司もいず、青年団と婦人会が面倒を見ているようだ。

 
 事実、初詣の時も神主・巫女を見かけたこともなく売店で破魔矢や、お守りを売っているのも地元の主婦達だった。

 この忘れられたような神社が年に3回だけ賑わう。
 夏の盆踊りと秋の祭りそして正月の初詣。
 

   ところがところがこの神社、とんでもない由緒ある神社であることが分かった。
 私の住んでいる地名が島屋敷で神社の名前が勝淵、何か歴史に関係があるのかとは思っていたが、こんな東京の田舎、へんぴなところにある小さな神社が歴史に名を残した武将の所縁のところとは全く知らなかった。

 5年ほど前から神社の前の公園の清掃ボランティアに加わってこの神社の由来を教えて貰って、この神社があの柴田勝家縁の神社であることを知り、それ以来尊敬の眼差しで眺めるようになった。

 3年ほど前にか三鷹市の肝いりで郷土の史跡として整備され、史跡の石柱も建てられている。

  それによれば柴田勝家は秀吉に賤ヶ岳の戦いに敗れて北の庄城で自刃するが、その折、孫の権六郎に兜を与え、上野の国の外祖父の元に行かせる。
 この権六郎は元服して勝重を名乗るが、後に徳川家康に召し出され上野の国群馬・碓氷に2000石を与えられる。
 この勝重は関ヶ原で初陣を飾り、その後大坂冬の陣、夏の陣で武功を上げ、その功で武蔵野国仙川村一帯(現在私の住んでいる所)に500石の加増を受け、この地(島屋敷)に陣屋を立てて住居とした。

 その後、この地に神社を建立して祖父勝家から与えられた兜を祀り、社号を勝淵大明神としたのが勝淵神社の由来という。

 島屋敷の隣の中仙川には勝重の墓のあるお寺や由来の小さな神社があるので、一度自転車で回って見たいとおもう。

 いやはや郷土の歴史は知らないばかりで、こんなところにこんな歴史の重みがあるとは。

「深大寺」

   正月2日は深大寺に初詣に行った。
 深大寺は自宅から自転車で15分、歩いて40分の近場で休日は多くの参詣客で賑わう。

 寺の由来は良く知らないので省略するが、境内の中は広くいくつもの寺が集まっているので、ゆっくり見れば趣がある。
 深大寺の名のごとく水が豊富で、深山幽谷の趣があり、交通量の多い道路から一歩入れば別世界の感がある。

 最近冨に有名になり、初詣も警察官が出て境内に入る人数を制限しているので、その列は50mにも及んでいた。

   深大寺に来る参詣客のお目当ては参詣よりも立ち並ぶ「深大寺ソバ」の店と土産もの屋、蒸かしたてのソバ饅頭で、饅頭をほうばったりしている人も多い。
 ソバは名物だけあって美味しいが、休日の昼時はほぼ満席、時間待ちするところもあるので、平日行ってゆっくり味わうのがお勧めだ。

   深大寺ソバといえば思い出があり、現在もある「多聞」(一番はずれの坂の途中にある店)という店は少々変わった店。
 どこが違うかというとソバの量の多さ。

 中盛りで大盛りの量、大盛りだと普通の店の大盛りの3倍はあろうかという多さだ。
 10年以上前に仕事で下連雀の日本無線に来た時に一緒に来た若い営業マンが深大寺に面白い蕎麦屋があるので行きましょうという。
 それが「多聞」でこの若い営業マンは痩せの大食いで前回は大盛りを平らげたという。

 挑戦してみますかというのでその気になって2人で大盛りを頼んだ。

 女将が来て、大盛りを全部食べた人はめったにいませんから普通盛りか中盛りでも十分ですよというのを無理に頼んだ。
 出てきた盛りそばの量たるや食べても食べても量が減らない。

 いくらソバ好きと言ってもこれ以上頑張っても入らない、口から溢れそうになる経験をしたのは初めてだった。
 それでもソバは半分も減っていない、深大寺ソバというと必ず「多聞」を思いだす。

 ソバ食いに自信のある方は一度挑戦してみては。
 但し、残さず食べても料金はただにならないのであしからず。
 

「大國魂神社」


  正月3日は府中の大國魂神社。

 家からはバスと京王線で府中駅まで40分駅から歩いて5~10分、当日は夕方に近かったが沿道は人の波。

 この神社は参道が長く200mはあろうか、その両側にびっしりと屋台と出店、参道に横から入る道にもびっしり、いったいどれだけの店があるのか、まるで東京中の香具師がすべて来たのかと思うほどの店の数、これが大國魂神社初詣の最大の楽しみなのだ。
 

   大人のグループであれば、参詣が終わった後、屋台の裏に設けられているテントの椅子に座って焼き鳥などを肴にビール、酒を飲む、これが楽しみで来る人も多い。

 参詣は口実だから、罰当たりかな。

 実際、調本の府中管理事務所にいた頃は正月4日の仕事始めは業者との賀詞交歓会があり、お開きになった後、帰りに大國魂神社によって参拝した後、屋台で飲んで帰ることが多かった。


   この神社は社殿も立派だがともかく敷地が広い。

 それもそのはず、何しろ創立が1900年前というからやまと時代のまだ前、大化の改新(645年)で武蔵国府がこの地におかれ、大國魂神社のその後の繁栄の基が築かれたが、当時は政治と催事は表裏一体だったので、ここが政治のの中心だったのかもしれない。



「初日の出」
 初詣と初日の出を見ることは正月の行事として一対のようになっているが、初日の出を見ることはそう簡単ではない。

 まず、天候が晴れでなければ見ることは出来ない。

 また見る場所も太陽が見れればどこでも良いわけだが、人間の心理として一番早く太陽が顔をのぞかせるのを見たいということで場所選びをするだろう。
 また、時間も問題で場所にもよるが、何しろ早朝の6時半ごろから7時半ごろまでの数分しか一番見ごろが無い。
 中には前日か夜中に海岸や山、小高い見通しの良い場所に移動して辛抱強く待つ人も多い。

 そんなわけで私の場合は実に安易なやり方を選び、カメラを持って自転車で数分の仙川の橋に出かけ、川の延長方向から上がる日の出を待つ。
 川の延長上はビルもなく木々もまばらで条件としては良い方だ。毎年の事なので、だいたい太陽が顔を出す時間も分っているので、その少し前に出かける。
   待つことしばし、東の空が明るくなり、木々の先端から赤っぽい黄金色の太陽が顔を覗かせたと思ったら、輝く光の玉はぐんぐん大きくなりギラギラと輝く太陽になる。

 僅か数分間だが私はこの瞬間が好きだ。生命の源、生命の躍動を感じる。


いつも見て居る太陽だからとも思うが、年に一度だけゆっくり集中して太陽を眺める時間があっても良いと思う。

 あのまるで生き物のように力強く空に昇る太陽を見て僅かの間だけでも、今年は昨年とは違う自分になりたいと思う気持ちになれる。

 この初日の出で、今まで一番印象に残ったのは観音崎の海上自衛隊の敷地から見た東京湾の日の出で、当時、走水にある親戚に大みそかから呼ばれて元日を迎えていたので、朝早く起きて初日の出を見に観音崎の海自の観測所に行った。
 この日だけは大サービスで敷地内に一般の人を入れてくれるので隠れた名所となっていた。
 ここから見る日の出は最高で、東京湾の彼方、館山方向の房総半島の先からゆっくりと昇る初日の出は壮大だった。

 初日の出というといつもこの光景を思いだすが、この走水の親戚も昨年、老齢化に伴いついに先祖伝来の地から馬堀のマンションに移ったので、もう東京湾の日の出を見る機会は無くなった。

「初詣雑感」
 今年の初詣は初めて3日連続で3か所を巡ったが、結局初詣として賽銭箱に賽銭を投げ、柏手を打って一年の願をかけたのは勝淵神社だけで、あとの2つは行ったということだけで、参拝の人の流れを眺め、お神酒を頂き、出店を見て正月の気分を味わっただけだった。

 もう年なのだからそれでも良いと思う。

 今年の初詣は勝淵神社で郷土の歴史に触れ、感慨を新たにした。

 それにしても家康という人は狸親父、懐の深い人だったのだろうと思う。
 勝重を臣下に加えたのは、祖父があの勇猛果敢な柴田勝家だったので孫もきっと働くだろうと踏んだだろうし、敵の敵は味方と秀吉に滅ぼされた柴田一門を味方にする意図もあったろう。
 当時の秀吉との力関係はどうだったのか。
 勝家の孫を雇ったのだから、当然秀吉の不興を買うことを承知でしたとすれば、すでに豊臣に拮抗する勢力を持ち、天下を取る野望があったと思える。歴史の面白さを再認識した初詣だった。