42期 徒然草
母2題 谷口 日出男
  
 私には、97歳になる母親がまだ健在でいる。母親がまだこの世に居ることに幸せを感じる。しかし、その母親もご多分に漏れずに、年ごとに衰えていっている。幼児が、はいつくばりからヨチヨチの立ち歩きができる過程とまったく真逆の過程で今度は、幼児に戻っていくような感を受ける。そんな母親について、何か書いてみたい。こんな話、すでに母君を亡くされた方へは、気が引けるし、こうして自分の身内の話をするのも、なんか自分の孫や飼い犬につて自慢たらしく話をするようなもので、これまた少し気が引けるところはあるが、あの時代、自分たちを育ててくれた母親に感謝の念を込めて、思うところをしたためてみたい。
 
 母は、大正4年生まれである。5人の男の子に最後に授かった女の子の合わせて6人の子供を育て上げた。明治生まれの気性の強い姑に仕え、あの戦雲高まる昭和初期の時代を生きてきた。5人目の男の子をおなかに入れてる時に、夫は、遠く異国の地に召集された。そして戦後、あの貧しい時代、清貧を洗うごとく夫婦して働いて生きてきた。その時代を生きてきた日本の母親の姿がそこにある。
 
22.12.10  
 
 数十年前のその情景は、橋を渡ってすぐの小さな坂にまだ残されていた。
 

 車なんて数えるほどしか通らなかった。街灯もなく、明かりは自然の光だけである。周りの景色が暗くなるに連れ、坂道の入口付近にある何軒かの家並みからのボンヤリとした灯りが段々と強くなってきた。まだあたりが薄明かりの時からそこで待っていた。明るいうちにそれが叶うとは期待できなかったが、もしかしてと思えば矢も盾も堪らずそこに行った。時折、通りすがりの人が声をかけてくれる。
 学校から喜び勇んで我が家に帰る。なんか嬉しいことがあったんだろう。滅多になく先生から誉められたのか学校からの下り坂の道を跳んで帰る。家に着くも中には誰もいない。家の周りの畑や茶園畑を探す。見つからない。田んぼなのかなと思い、上の畑に上がって遠くに見える田んぼを見るもそれらしき人姿は見えない。もしかしてと家に帰り、工場の方を覗く。そこには自転車はなく、またいつも自転車の後ろにくくりつけられるブリキ製のお茶を入れるカンカンもなかった。そうか、母ちゃんはお茶売りに行ったのか・・・。 

 ふくらんだ心の風船が一気に萎んでしまった。少し気落ちしたまま「はがまのふた」を開けて表面に塩のかたまりが浮き出たカライモを食べる。そのうちオヤジが外から帰って来た。「ただいま」と言うだけで母親に報告しようとしたことはオヤジには報告しない。そのうち他の兄弟たちも帰ってきた。
 いつもの慌しい夕方が始まった。兄貴達は牛の世話、俺の仕事は風呂の水汲みに台所の水がめの水汲みだ。井戸のポンプをガチャガチャと漕いでバケツに入れ、両手にそのバケツを下げて運ぶ。単調なしんどい手伝いだけど何回か往復しないと終わらない。この手伝いはその後もずっと続いた。足が短くなったのもこのバケツ運びをずっとやってたせいかもしらん・・・。

 水汲み終わると風呂炊き、そして母親が居ないのでご飯も炊いた。茶棚の下には、米を入れた米びつと麦を入れたかめがあった。真っ白なご飯を食べたいのは山々だがそういうわけもいかず米六分麦四分くらいの麦ご飯を炊いた。米のない時代なのでその麦飯の中に、更にからいもや千切り大根がはいることが度々あった。芋飯はいいけどこの千切り大根飯は匂いが強烈で、幼心にこの匂いがすると途端に哀しくなった。"またぁ、千切りめし"と不満を洩らすとおふくろは淋しい顔をした。それを見たオヤジが"そんなら、晩めしは食うな!"と怒る。余計に哀しくなった。一家九人の食事ともなると今思えば本当に大変だったろうなぁ・・・。時折、そんな事情を幼心に汲んでかそれとも親のご機嫌を取るため?にか麦を多く入れて炊くと兄達から"日出男の奴・・・"と睨まれた。その風呂焚きも終わり、ご飯も出来た。それ以上の手伝いは小学高学年の子供にはなかった。それを終えて大抵は弟と一緒にその坂道の入口で待った。母ちゃんの帰りを・・・。

 あたりはもう完全に漆黒の闇となった。早く帰って風呂にはいらないとオヤジから怒られる。だけどもう少し、もう少し待てば橋の向うから自転車の光が見えてくるかも知れない。弟も黙って待っている。
寒いし、腹もへったなぁ・・・。

おふくろさんがお茶売りの行商を始めたのはいつ頃だったんだろうか?オヤジさんが盲腸の手術で長期入院し、その退院後みかん畑が少しづつ実入りの良いお茶畑に変っていったような気がする。あれはいつのことだったか朝、オヤジが「ヤマイモ」掘って(カンシャクを起こすことの方言)、はがまのふたを障子に投げつけたことがあった。多分、その頃オヤジとしても思い通りにならない生活の苦しさからの逃れだったんだろう。その時は、長兄の学生服姿が記憶に残っているので高校二、三年の長兄を筆頭に小一か小二の末妹までの六人の学童・児童がゾロゾロと引き続く大変な時だったかもしれない。

 多分、昭和二九年か三十年のその頃がお茶売りの始まりだったのか。門松ブリキ屋さんで作った四角いカンカン箱にお茶をいっぱい入れておふくろは自転車を漕いで家々を廻った。訪れる先は、あちこちとあったが主に、対岸の集落やその下流の集落が多かった。農家を相手にすることが多く、農家の人は、昼間家を空けることが多いので勢い、家人が帰ってくる夕方以降がお茶行商の勝負だった。従って、必然的に行商を終えて我が家に帰るのは遅くなった。この夕方の勝負、あそこにもこっちにも寄っていきたいけどそっちに廻っていたら帰りが遅くなるなぁ、どうしようかなぁと自転車を漕ぐ足にもためらいがあったかも知れない。
 初めてお茶売りの行商に出たときのおふくろの気持ちはどんなだったんだろうか。食うためとは言え、そこには恥ずかしさも衒(てら)いも棄てなければやってはいけなかっただろう。
 初めて訪れる家で恐る恐る声をかけ、お茶はどうですか?と声をかける勇気と決断はすぐには出来なかっただろう。後年、時代・環境が違うとは言え、俺も定年後、再就職した会社において体験した飛び入り営業するあの心境に近いものがあったのかもしれない。訪問先の前を二三度通り過ぎた後、意を決して訊ねたら、相手先が留守で何かホッとした本来の営業とは相反するあの心境は忘れられない。

 それから五十年以上、そのお茶売りは続いている。頬を切る冷たい風の吹く日、背中に汗がジワッツーと噴出す暑い日そして途中雨に降られた日と続いた。自転車で・・・。
  自分の人生の坂を上ると同じようにこの小さな急な坂を一日の行商を終えて上ってきた。そして九三歳を超えた今でも、弟嫁の運転する車でお得意さんを時折、廻る。

 弟に帰ろうか言うも返事がない。帰ろうと言う俺にも本当はまだその気はなかった。昼間、学校から飛び勇んで帰り、母親に報せようとしたことが思い出す。喜んでくれるだろうか?総ゴム製の靴の中で靴下のない足に寒さを感じてきた。
 車の灯りが見えた。三輪車のトラックである。今の様な丸ハンドルでなくメグロのオートバイみたいな棒ハンドルの三輪車がドォッ、ドォッと重い音を立てて坂道を登り始めた。子供でも後ろの荷台にぶら下がれるような足の遅さである。だが今はそんな気は起こらない。三輪車のトラックの通った後は、ほこりが立ち込めたのか余計に向うが見えなくなった。
 待った。星がきれいだ。川面の水の流れが天空からの星の明かりでキラキラと輝いている。この白く光る流れと暗い渕が織り成す白黒のコントラストの光景は、今でも思い出すことができる。夜の川は、昼間のあの遊び場所と違って何となく妖気な気配が漂う。
 
 橋の向うにチラッと灯りが見えた。消えかかったり強くなったりと自転車特有のライトの灯りだった。時々、砂利道にハンドルを取られるのかその灯りがあらぬ方向に向いたりする。あっ!母ちゃんだ!弟が走りだした。俺もその後を続き、途中で弟を追い越す。ライトが近づき目の前で消えた。おふくろさんが自転車から降りる。自転車がグラついたので後ろに廻って倒れないように支える。追いついた弟が"おかえんなさぁーい!"とおふくろさんの服を掴む。おふくろさんが弟の頭に手を置いた。待ち侘びた寂しさと会えた喜びで弟の顔は、半べそ顔だ。俺も泣きたくなった。"おそうなったね!迎えに來ちょったっか"と笑みがこぼれる。先程のトラックに追い越されたせいか夜目にもおふくろさんが白っぽくほこりまみれなのがわかる。

 弟も自転車の後ろに回り、売れたお茶の代わりに貰った米や野菜の詰まったカンカンに手を添えて押す。ヨイショ!ヨイショ!と。

坂道を登る自転車を押しながら先ずは弟から、今日の報告が続く。俺の段には至らぬうちに坂を登り切り上の畑に到着。曲がると下の方に我が家の光が暖かく見えた。今度は下り坂である。俺たちは、前に廻り、おふくろさんが乗る自転車のライトを提灯に、坂道を走って下った。 
  "ただいまぁ!!   母ちゃんが帰っ来たっつよ!"


 兄貴からメールを貰った。週末におふくろさんに本を持っていったことや予定している兄弟ゴルフの話である。おふくろさんも少し物忘れが出てきたとか、思い込みも時折強くなったとか・・・。そりゃそうだろうな、今までこんなにして元気なのが凄い。逆に凄すぎる分、ご多分に漏れず周りにあれこれと年寄り特有の物議を醸し出してきた。それが今は、同居している弟嫁に全面的に圧し掛かっている。
 
 日曜日、帰省することにした。途中、留守番電話に夕方七時頃になるだろうと伝える。集落を通り過ぎ本庄橋を渡ると左手に実家がはっきりと見えてきた。まさに眺望抜群の地である。こんなところにまだ帰れる実家があることに幸せと感謝を感じる。昔はなかったバイパスの信号を左折するとその件(くだん)の坂道に入った。上から降りてくる車二台と離合、いっぱい、いっぱいである。離合を終わるといつものようにハンドルを少し右にふくらませ左折した。
 我が家の敷地の茶園畑にはいった。そこにはブロックに腰掛けたおふくろさんが居た。
 思いがけない光景だった。"誰かな?"というような顔をして俺の車を見ている。
 窓を開けて"ただいま"と。誰だか判ったのかニコッーと顔一面に笑みが湧く。
 "もうすぐじゃと思ち、待っちょったつよ"
 "ご飯、食べたっつね"
 "うん、もう先に食べたっつよ"そういう口元には、何かのおかずの残滓がついている。"帰るね?"聞こえないのか返事がない。
 "先に降りちょくよ"と言い、そのまま車を走らせる。どのくらいそこで待ってたんだろう。まだ七時前なのでそんなに前からではないだろう。茶園畑と道路を仕切るそのブロック塀に腰掛けて、はいってくる車を待っていた。なに考えていたんだろうか・・・。
一瞬、子供時代、坂の下であの待ち続けた場面がフラッシュバックした。
 夜、おふくろさんが敷いてくれた寝床に横になる。ブロック塀に腰掛けた姿が浮かぶ。あの子供時代、坂の下で母親の帰りを待ってた様に今度は坂の上で母親が子供の帰りを待っててくれた。そこで会った母親の笑みは、小さい頃、あの夕方自転車から降りる時に見せたのと同じだった。そして誰からか教わった親という字の謂れを想いだした。
 「君、親という字を学び給え、立ち木に登りて、吾が子の帰りの遅きを案じ見る親の切なき心のこもリし一字なる哉」
 
 寝る前にはいつものように日記を書いていた。肩口にチラッと見えた日記には、いっぱい字が埋まっている。いつもの「てふてふ調」の旧仮名遣いで何て書いてるんだろうか?
     

 それから1年後、母は施設にはいった。頭の中のセルは、少しづつ壊れていってる。これはそんなある夏の日の母である。

24.7.8  
膝 枕

 下のグランドから吹き上げてくる風が柔らかくて優しく気持ちがいい。もう、そこに来てどのくらい経っただろうか、足を投げ出しての姿勢もきつくなったので寝そべり肘枕(をする。肘枕になっても顔を通り過ぎてゆく風を感じる。

 "あの木はなんじゃろうか?"もう3度目かの同じ質問である。"あっ、あれね、楠じゃが"と3回目のまったくの俺の同じ答えである。この肘枕の姿勢、要領を得ないのか肘のくるぶしあたりが痛くなってきた。立てた肘を引き抜き、さらに大きく寝そべる。そのまましばらくもぞもぞするもどうも頭のすわりが良くない。その時、おふくろさんが言った。"わちのここに頭、乗せない"と。おふくろさんも先程から足を投げ出して座っている。その投げ出した足に俺の頭を乗せろと言う。 膝枕である。

 えっ、いいの?と声かけるも"いっちゃが、乗せない"とまた同じ答えが返ってきた。
 それじゃ、お言葉に甘えて乗せるとするか、片手で支えた頭をおふくろさんの太もも付近に乗せる。おふくろさんが頭の後ろに置いた俺の手が邪魔だろうと言うので直接おふくろさんの足に頭を置いた。張りのある?太ももの感触が後頭部に伝わる。全体重の頭を乗せるのも気が引けるので首筋に力を入れての甘えの膝枕である。そのままの姿勢でおふくろさんの顔を下から仰ぎ見る。まだ張りのある顔には化粧を施した笑顔が漂っている。きつくない? 大丈夫?と言ってもいいよと答えてくれる。
柔らかい風に乗せてほのかに化粧の臭いが鼻をついた。今日も施設の出がけにバッグの中身を点検し、化粧品がちゃんと入っているかを確認していた。この前までなかったファンデーションのパックが二つとも入っていると喜んでいた。誰が入れちゃったじゃろかと言う。何度も言うので百合子(妹)でも来て入れてくれたんじゃないと答えといた。やがて70になる息子が96になるおふくろさんの膝枕で初夏の木陰の下で過ぎゆく時を感じている。
 
 "あそこには人が住んじょっとじゃろうか?"とこれまた同じ質問が繰り返された。前にも答えたので無視してもいいんだけどそこはやはり黙っとくわけにもいかない。おふくろさんの話し相手に折角平日休みを取って遠くから帰ってきたんだからそれを無にすることはない。
"あそこは、電話ボックスなんで誰も住んじょらんと"と答える。しばらく時が過ぎてまた聞かれる。同じ質問である。あれっ、さっき俺の言ったのが聞こえなかったのかと、おふくろさんの鼻の穴を見ながら同じ答えをした。そうか、おふくろさんには電話ボックスという言葉の意味がわかってないんだなぁ・・・
 あそこは電話を掛けるとこなので人は住んじょらんと説明する。
 わかったかなぁ、返事がない。

 力を入れていた首筋が耐えれなくなったのでドカッーと全体重の頭を乗せた。しばらくしたらおふくろさんがもぞもぞしてきた。きつくなったんだろうと俺も起き上がる。どうもありがとうと言うとおふくろさん、持っていたタオルを膝に伸ばし、またそこに俺の頭を置けと言う。どうもありがとう、でももういいよ、少しは休んだからと断る。更に何度か押し問答が繰り返された。起き上がった目に電話ボックスが見え、そのそばではシルバー人材の人たちが暑い中、草刈り機を使って周辺の草刈りを実施している。
 
 風が止むとムッとする夏の暑気が押し寄せるが丁度グランドの土手みたいなとこでの場所なので風の方は長く休むことなく優しく通り過ぎてゆく。至福の時間が刻まれていく。土日でもなればサッカー場では元気な若者が走り、この駐車場も車でいっぱいになることだろう。今日はその前の金曜日、暑い中の午前中の時間帯であればまわりには誰もいない。

 あの木がなんじゃろうか、あそこには人が住んじょらんとじゃろうか、あの山の向こうはどこじゃろうかという以外には然したる会話はない。時折、俺があれこれ質問しても断片的な答えしか返ってこない。昔、ワラビを取りに来たこととか茶園の間の延びた草取りが気になるとかである。そういやもう自分の誕生日も忘れたとか言っていた。毎週、面倒見てくれる武夫兄貴のことも、この頃武夫ん顔はいっちょん見ちょらんと言う。これじゃ武夫兄貴も立つ瀬がないかな? もっとも武夫兄貴には、日出男はなんしよっとじゃろうか?顔も出さんけどと言っているのかもしれない。段々と頭の中身が壊れていってるのである。身体の方も少しづつ弱っていってるか・・・

 着いた早々、トイレに行く。便座まで案内して座らせる。ズボンを下ろすのは自分でもできるが終わって引き上げるのはできない。トイレの外で待ち、終わった後、なかにはいって手伝う。紙おむつパンツを引き上げる。今の仕事に着いたおかげで何ら抵抗なくできる。終わって手を洗いまた元の場所に手を携えて歩く。座るときに後ろが少し低くなっていたもんだから思わず後ろにひっくり返る。ビックリした。頭打たんかった? 何ともなかった、危ないとこだった。座るまで手を貸していたが肝心なとこで手を放したので後ろにでんぐり返ったのだ。もう足が弱っているのである。そんな苦労して?ここに座っている。こうして周りに誰もいない綾の運動公園グランドのそばの木陰で幸せなひと時をすごしている。もう、どっか他のところへ行こうかとかここが退屈だとかは言わない。時折、手を合わせて何かに感謝しているような仕草を見せる。施設でもフミ子さんは食事の時はいつも感謝して手を合わせていると職員が言う。今もそうして何かに感謝しているのか・・・

 やがて96になるおふくろさんのこれまでの人生、きっと充実した人生だったんだろう。

 ここに来る前にスーパー店に寄り、飴玉とみかんとペットボトルのお茶を買った。"わちゃ今日はお金持ってきちょらんとよ"言う。いいよ、俺が今日はおごってやるよ。この頃、いつも自分がお金を持ってきてないことで遠慮する。多分この後行く予定のうどん屋でも何がいいねと聞くと、一番安いやつでいっちゃがというだろう。もう、おふくろさんにはお金の管理は、できないのである。うどん代くらい安いもんである。これまでどれだけおふくろさんから小遣いを貰ったことか、まだなんも恩返しをしていない。その買った飴を口にほおばりながら時折両手を合わせ何か呟いている。柔らかい風のもと、このゆったりとした時がいつまでも続くとは思わないが今しばらく、おふくろさんがいいというまでこのままここに居よう・・・
 
 
  "あの木はなんじゃろうか?"
  "うーん、あれね、樫の木かもしれなんぁ"

 先程指差した同じ木に違う答えをしてみた。
 息子もいい加減に答えている。









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 今年もまたこの薫風かおるこの時季、母の日が来た。この時季を母の日とした先人の賢明さを不図感じる。そして、76をかしらにする6人の子供たちは、いつか迎えなければならないその日まで、おふくろさんに、このまま穏やかに過ごしてもらいたいと、願っている。

谷口君の投稿記事を読んで        ターナーフアン

 いつも楽しみにしていますが、「母2題」 一気に読まして貰いました。
 いつも思うのですが、谷口君とは、経験したことがかなり似ているのが不思議です。

 ご母堂様が96歳でまだお元気で、膝枕までして貰うなんてなんと幸せなことでしょう。
 そよ風の心地よい木陰での語らい、平凡でも日がな一日一緒に過ごす姿は羨ましく、微笑ましい思いがします。
 この年では最早、誰も得ることができない幸せです。

 このエッセイを読みながら自分の母を思っていました。
 私の母もほぼ同年代ですが、定年を楽しみにしていたのにその4ヶ月前にあの世に旅立ちました。
 父が私が36の時に死に、それから20年一緒にいたわけですが、当時、「お母様とご一緒でお幸せですね」と言われると、今思うと恥ずかしい話ですが、「3人兄弟の末っ子が何で面倒見なきゃいけないんだ」と思っていました。
 今は完全に「マザゴン」、母と言う言葉を聞いただけで涙が出てきます。

 それは生きている時に旅行の一つにも連れて行かなかった、定年になったら時間があるので好きなところに連れて行ってあげようと
思っていた矢先のことだったので、その悔しさがあるのかも知れません。
 「孝行したいときに親はなし」です。

 谷口君の母の思い出の中で特に印象的だったのは、行商から帰ってくる母を幼い5人の子供が途中まで出迎えて嬉しそうに一緒に
家に帰る情景や母が老いてからは息子が帰ってくるのを心待ちにしている情景です。
 私も小学校の時、途中で引っ越したためにそれから6年間都電での遠距離通学、家計が苦しいのに子供3人を良く通わしてくれたもんだと思いますが、母の「お帰り」の言葉が聞きたくて、家が近くなると走って帰ったものでした。

 母と一緒に住む様になってからは、息子の帰ってくるのを心待ちにしてくれたようで、嬉しそうにしていました。
 「親の心子知らず」で、大宮に勤務していた時は飲んだくれて殆ど午前様、それでも息子が帰ってくるまで寝ずに待っていました。
 母は世界でただ一人、子供のことを常に心配してくれる有難い存在です。
 村上君もその思いを投稿してくれましたが、私は少々それに気づくのが遅かったようです。

 5月12日は母の日、最近ご無沙汰している線香を上げて、母に感謝しようと思っています。
 ご母堂様にこれからもお元気で長生きされることを願うとともに、母の愛を受ける幸せを噛みしめて下さい。