42期 徒然草 田中 征之
ベトナム紀行 その4
 
 ハノイ2日目午後・3日目帰国の日

 軍事歴史博物館には、1枚の絵が飾られています。それは元と戦った場面を描いた絵で、ベトナムは元が強大な帝国を築いたあの時代に、都合、4回攻められています。
 しかも正規軍です。
 日本の元寇は朝鮮で調達した兵の多い混成軍だったわけですから、ベトナムに攻めてきた元軍の方が遙かに強大だったでしょう。

 では何故ベトナムは、この強大な元軍を4回も撃退出来たのでしょう。

 それは国土の特性を利用した巧みな戦いをしかけてからです。
 ベトナムは中国と接する北側は山岳地帯で大兵力の投入は難しく特に元のように騎馬兵による機動を得意とする軍には不向きです。
 一方、ハノイの近郊には、フォン河という大きな河が流れているので、船で河口から遡り、直接、ハノイ郊外に上陸する作戦を取ったと思われます。

 それに対しベトナム軍はフォン河の水中に沢山の杭を打ち込み、引き潮になると船の底が杭に引っかかり行き足が止まったところを多数の小舟で攻撃、火をかけたりして散々に打ち破ったそうです。
 この戦法はフォン河を熟知した巧みさで成り立った訳ですが、これと同じような戦法を日本も2度目の元寇の時に用いたので、この共通点は少々驚きです。

 日本の場合は夜間小舟で忍び寄って夜襲をかけたので、これに業を煮やした元軍は船と船を寄せて板を渡し、兵力の移動を図ったところ、局地的な台風級の大風が吹いたため、船と船がぶつかり、しかも朝鮮で短期間に大量に作らせた(粗製濫造)の船だったために
壊れて殆どの船が沈んだと言われています。

 又、両者に共通するのは、国難に際し、死をも恐れない勇敢さがあると思います。
 かくして元軍は同じ戦法に引っかかって4度も苦杯をなめた訳です。


 ここにはホー・チ・ミンの活躍の写真も多くあり、ホーチミン廟でも感じられたことですが、死して数十年経つのに、未だに「ホー叔父さん」と親しまれ、尊敬されています。
 正に偉大な指導者で有ったわけで、これもベトナムの国民が結束できる要因ではないかと思います。

 また、ベトナムはベトナム戦争による国力の衰退、経済の停滞を打破するために1986年に「ドイモイ」政策を採択し、市場経済を導入しました。
 現在は余り目立っていませんが、当時はこれをスローガンとして大きな運動となり市場が活性化され、ベトナム文化の再認識に迄及んだことを付記します。
 
 僅か3日のベトナム・ハノイの旅も終わり、夜はあの酒場でビールを飲み名残を惜しみました。
 また再びベトナムの地を訪れる日の有らんことを念じて。  


 空港へ行く車中から見た水牛がのんびり草をはむ自然が何時までも残って欲しいと思いつつ機中の人となり又、現実の世界へ飛びだちました。