42期 徒然草 田中 征之
「遙かなる大連そして旅順・203高地へ」その2

 旅順、日露戦争の時にバルチック艦隊を迎え撃つにはどうしても旅順港内に停泊する太平洋艦隊をそれまでに撃滅する必要があり、日本は陸軍を進出させてロシアの旅順要塞を攻略し、砲撃によって旅順港内にいる艦隊を撃滅するための観測点を得ることが急務とされた。主攻正面の東鶏冠山一帯の要塞地帯は堅固で容易に落ちず、最終的に選ばれたのが旅順西北の翼をなす203高地でした。
 203高地での戦いはNHKの「坂の上の雲」でかなり克明にえがかれたのでよく知られていますが、僅か10日余の戦いで1万6千に近い人命が失われた事も事実で、私もいつの日にかこの地を訪れ、国の存亡をかけたこの戦いに命を捧げた英霊の方々に手を合わせたいとの思いがありました。

 朝、7時に案内のドンさんが迎えにきて、車で重光君と2人、旅順へ、そしていよいよ最初の目的地の203高地に向かいました。旅順は大連から車で約1時間そこから30分ほどで203高地直下の駐車場へ。駐車場から山頂まで歩いて5分、何か、はるばる日本から来た余韻を確かめる様に回りを見ながらゆっくり歩きました。そこで目にした203高地はあの草木も飛んだはげ山の激戦地の面影は全くなく一面松林の穏やかで美しい公園となっていました。平日のためか、日本からの観光客は我々だけで、中国の人もぱらぱら、土産物屋の親父も暇そうにしてました。
 聞くところによると、中国の人は外国同士が戦った日露戦争には興味なく、日本人があまり興味がない日清戦争の史跡を見に行くそうです。

 頂上の「爾霊山(にれいさん:203)」と書かれた砲弾型の記念碑に手を合わせ、記念写真を撮り、回りをよく見ると、そこには108年の風雪にも朽ちず、紛れもない戦いの跡を示す塹壕の跡(頂上付近なので多分ロシア側のもの)が諸処に見られました。
 頂上から攻防の行われた斜面は、階段が整備されていて乃木さんの息子さんが戦死した記念碑まで行かれるようになっていましたが、帰りの登りを考えて途中で止めました。
 そうです。思ったより傾斜が急なのです。これでは突撃で一気に駆け上がることは難しくおまけに鉄条網の障害と側防火器の十字砲火で行くも成らず引くも成らずだったでしょう。もう一つ、是非確かめたかったのは、本当に旅順港内の敵艦が見えたのか(観測点としての価値があったのか)と言うことですが、残念ながらやや天候が霞んでいたのと松の植生に遮られて見えませんでした。
その次に行った203高地の稜線の前面にある「白頭山」からは眼下に望めるので
 203高地占領→白頭山進出と言うことで降伏と相成った様に思えました。
 203高地の陥落によってさしもの東鶏冠山一帯の要塞地帯を根っことする旅順要塞も落ち、この壮絶な戦いは終わりましたが、今でも深く心を動かされる所です。