42期 徒然草 田中 征之
銃剣道の思い出(川井君の投稿に寄せて)

 川井さん、全国銃剣道大会の投稿ありがとうございました。

 10師団銃剣道大会幹部の部で川井さんが優勝した時の事を鮮明に覚えています。
 静から動、動いたと思ったら一瞬で決まった鮮やかさは、流石に幹部の部と感心しました。

 当時、我が第10通信代隊も大隊長が銃剣道が好きで、毎月、小隊対抗の銃剣道大会が行われ、老獪な?部内出身幹部に隙だらけの所ををポンと突かれ何と9連敗、陸士3、陸曹3、幹部1のチーム構成で、いつも陸士全敗・陸曹全勝で幹部に勝敗がかかってくるので参りました。
 これでは小隊の士気に関わると「どうしたら勝てるか」と始めて真剣に考えました。その結果、同じ下手同志(通信の銃剣道ですから)なら、先に剣を出したら勝てるとの結論に達し、次の試合ではまず飛んでいって初一本を狙う、外れたら身体を寄せてもみ合いに持ち込む、「別れ、始め」の合図あったら、すぐ剣を出す戦法を採りました。
 それでも殆ど決まらなかったのですが、審判も気の毒に思ったのか、時間がかかつてしょうがないと思ったのか、攻勢を取って私に旗を上げてくれました。
 何とか10連敗を免れて、それからは連敗をしなくなりました。
 大隊長が変わって、小隊対抗の銃剣道大会が無くなった時には「ホッとした」のも事実です。

 それから時は移り、市ヶ谷の通信団の部隊のS-3で着任したときに、何と通信団も毎年、銃剣道大会があるとのこと、しかも我が部隊は毎年最下位、以前の自分と同じ境遇で何とかしてやりたいと思いました。
 そこでまず、「敵を知らば何とやら」で相手となる部隊の練習をそっと見に行きました。
 その結果、毎年同じ選手が出ていると見えて、型は綺麗で上手、これでは前の手は使えない、しからば弱点はと考えると、それは「通信の銃剣道」と言うことでした。
 これを打ち破るのは「お嬢様剣法」ではない体力・気力で圧倒する剣法だとすぐに思いつきました。
 しかし、大会まで1ヶ月余、今から身体を鍛えてもとても間に合わない、そこでまた「どうしたら勝てるか」と言うことですが、今度はすぐに結論が出ました。
 それは「銃剣道のプロで最強の連隊に1ヶ月身柄を預けて鍛えて貰う」事でした。

 早速、同じ市ヶ谷の32連隊の3科長の所へ行き、事情を話して、連隊で一番強い中隊に訓練をお願いしました。
 流石に連隊の3科長、「良し分かった、勝てるようにしてやろう、その代わり、「連隊長宛に訓練の依頼状を出すこと」「訓練には一切口を出さない事」と言うことで快く引き受けてくれ、3中隊長の下に連れて行ってくれました。
 3中隊長も了承してくれ、「明日7時に武道場に来るように、時間に遅れてたり、故なく欠席したものがいれば、訓練は終わり」と言われました。
 その理由は次の日の朝、訓練を見に行った時にすぐ分かりました。
 何と教官で来たのは営内の陸士が二人、この二人が交互に早速実戦形式で相手を務めてくれたのですが強い強い、我が方の10名が続けて出て行くのですが、突き倒されて起き上がるまで突かれる案配で、2,3日すると全員アザだらけ。
 それでも感心に一人も休まず、3週間も経った頃には動きも格段に良くなり、突き倒されても向かっていく闘志も出てきて、この分で行けばひょっとしてと期待が出てきました。

 当日、連隊からも「良く頑張った、絶対に優勝出来る」との励ましを受け、選手もあれだけ厳しい訓練に耐えたのだからとある種の自信がうかがえました。

 期待通り、試合は連戦連勝、ついに万年最下位から優勝して、選手の喜びもさりながら、負けた部隊の「何であの弱小部隊が急に強くなったのか」と狐につままれた様な顔が印象的でした。
 早速、連隊の3科長、3中隊長にお礼の報告に行きましたが、あれだけやったのだから優勝できるとは思ったが、よく頑張ったと我が事のように喜んでくれたのは嬉しい事でした

 後日談ですが、これが縁でこの銃剣道チームと連隊との交流が続き、「徒手格闘」の指導に来てくれたり、飲み会も度々行った様です。
 銃剣道の話を聞くといつもこの事が思いだします。
 彼らも次の年には部隊移駐で北海道東千歳に移りましたが、交流は続き、その後合うたびに「主任は酷い人だ、あんな厳しい訓練に
我々を放り込んだのだから」と笑いながら非難されます。

 8月10日の全国銃剣道大会は是非行きたいと思います。川井さんの様な名勝負を期待しながら。