42期 徒然草
国旗掲揚五分前 谷口 日出男
【国 旗】

 目の前を初老の夫婦が歩いている。不意に立ち止まり、前方を見つめた。
 俺は、そのそばをこんちわ! と云って通り抜けようとした。するとその初老の男が俺に語りかけた。"いやっー、いいですね、国旗がこんなにして掲げてある家があるというのは"と。
 見ると、前方の家並みが連なる中、一軒の軒先に、日の丸が風にそよいで揺れている。旗竿に巻き付くことなくそれこそ、へんぽんとひるがえっている。
 いいなぁ...その老人が云うように暖かい日差しのもとで、風にそよぐ日の丸、丁度、そこだけに風が吹いているみたいに、旗を揺るがしている。 "そうですね、いいですね"と愚にもつかない返事をして俺は、その場を通り過ぎた。
 後ろを見ると、その老夫婦も俺の後を歩き始めた。そして、俺は、我が家の前を通り過ぎても家に入ることなくそのまま進んだ。
 
 だって、その日の丸を掲げてあるのは、わが家だからである。
 褒められて?何かが心に満ちてくるのを感じた。
 
 我が家が、祝祭日ごとに国旗を掲げるようになったのは、この地に居を構えてすぐにである。
 官舎住まいから一軒家へ、田舎なので当然、国旗はどこの家にも掲げてあるもんだと思ったが、意に反してまったくと云っていいほどどこの家にもなかった。旧家に何軒か、あの国旗のポールを指す留め金を玄関先の柱に見たことがあるが、もうどれもが留め金の釘が抜けていたり、留め金そのものが腐食していたりと最近、使った痕跡は見えなかった。

 一回、掲げればそのあとは、もう義務感と世間体の保持?で止めれなくなった。それがずっと今日まで続き、俺がくたばる、あと数年先までは引き継がれるだろう。その後は知らない。
 子供たちもそれぞれ別なところに居を構えているのでこの棲家も俺たち夫婦世代限りである。その時は、もうこの界隈で、国旗が上がることはないだろう・・・

 国旗は、量販店で求めたもので、約25年で2本目である。古いのは、荒天用と自衛隊並みにしたこともあるがそんなにケチるのも国旗を冒涜しているようで今は、全天候型である。なにっ、古くなれば新しく買えばいい。安いもんである。
 だがこの古い国旗、処分に困る。ゴミに出すわけにもいかず、只今使用中のものと倉庫に、未だ納まったままである。
 
 この国旗掲揚もコツがある。そのまま、あの留め金に指すと必ずと云っていいほど、旗がポールにまつわりつき、ショボクレタ布が垂れ下がったみたいで傍目にも見苦しい。というより国旗に対して失礼である。あれこれやってみたがどうもうまくいかない。その老夫婦が見たときと同じようにへんぽんと翻る日の丸にするには・・・

 そういえば、現役の頃、駐屯地当直司令の朝の仕事に、国旗掲揚があった。
 警衛隊のメンバーが例の厳かな動作で揚げていくんだが、下手すると旗がポールに巻き付きながら上がっていく。途中で止めて直すわけにもいかず、そのまま揚げていく。とうとう、あと10何cmのとろで引っかかって、もうそれ以上進まない。その隊員が焦るも余計に墓穴を掘っていく。
 このバカタレが思うも全責任は、司令たる俺にある。本物の駐屯地司令のもと、ほかの隊員は、その上がり損ねた国旗にいつまでも挙手をしている。あ~ぁ、このドジ奴!とみんな思ってんだろうなぁ・・・ 

 そう、話がそれたが旗がポールにまつわらない方策である。なんのことはない。ある時、国旗を止めている下付近のポールと、留め金のある柱の間に針金を貼るだけで、難なく解決した。丁度柱と旗を支えているポールの角度が30度くらいか、その間に旗が巻き込まないように、一本、線を引くことで解決した。(写真の赤線の様に)しかし、この解決に数年かかった。
 
 かくして我が家の日の丸は、忘れることなく、今度の建国記念日にもその針金を伸ばして、掲げられる。
 自衛官であったゆえの義務感?と、そうすることに抵抗感のない現役のころの教えである。国旗を初めて感じたのも自衛隊に入る時だし、その後の自衛官人生では、毎日欠くことのない国旗掲揚だった。

 それを一番感じたのは、やがて自分の自衛官人生も終わりに近づき、新たに巣立っていく若き幹部候補生を見ていた時か・・・
 
 そんな思いの昔話を、ご笑読の程を

                    
 【国旗掲揚五分前】                                                     (H1.5.20 記)

 先程から皆、立ち尽くしていた。時計台の針は、八時五分前を指している。
 さすが幹部候補生の集団か、列中からは、しわぶきのひとつも聞こえない。間近に迫った高良山走のことか、それとも今日一日のことを考えようとしているのか・・・上半身、裸で体操し、終わるや否や直ちにシャツを着、ネクタイを締めるのももどかしい程余裕のない毎朝の朝礼前の体操。それも終わり、今は服装を正し、整列している候補生達は、これから五分間、何を考え続けるんだろうか?

 約二〇年前、馬小屋と称した瓦ぶきの教場は、きれいになくなり、いま一面、緑の芝生でおおわれた校庭は広い。
 目の前の候補生隊舎地区には、頭一つ高い新しい候補生隊舎が目につく。いままでの大部屋から少人数の小部屋化、それに最新の設備を有する新しい建物は、4階建てである。
 そしてグランド東側には、陸上自衛隊最大のフロア面積を有する体育館が鎮座している。いずれも昭和世紀末の完成である。そしてその横には、完成間近な温水プールが朝日に映えている。昭和から平成時代への幹部候補生学校の施設の移り変わりである。
 そのような中で、幾多の卒業生がその気力・体力の限界に挑み、そして次の世代の若き挑戦者達の挑みを待ち受ける高良山が変わりなく深い木々に覆われて静かに今日一日を迎えようとしている。

 二〇数年振りに訪れた前川原、その整然さは昔と変わりなく、木々が大きくなったのが目立ち、そしてきれいに刈り込まれた山茶花の生け垣とツツジの植え込みがその整然さを一層際立たせている。それらの木々や桜・夾竹桃等が毎年八〇〇余名の幹部候補生の入校・卒業のサイクルに合わせ、四季折々の花を咲かせしてくれる。
 また秋の夕暮、本館の窓ガラスに燃えるような夕日が映ゆる時、広い校庭で青いジャージー姿の若者の集団が躍動する様は、まさに生きてる感じがする。
 耳納山のひとつの明星山方向から昇ったやわらかい朝の陽光が、駐屯地朝礼で整列している学校職員と入校中の候補生達の横顔に降り注いできた。
 名物?学校長兼駐屯地司令の威徳がすみずみまで伝わっているのか、先程までジャレついていた犬の親子も今は、道路上にチョコンと正座している。校長に可愛がられるお犬様と、時には、裏では?苛められてるかというその姿は、また愛らしい。


 … … あれは防大二次試験の受験のため、初めて自衛隊の門をくぐった時のことであった。
 ひとり汽車に乗り、隣の県の自衛隊まで行き、当時の隊外クラブに宿泊、そして次の朝、受験場の駐屯地の警衛所横で受付を済ませた。警衛所のまわりには、ある者はひとりポツンと、ある者は同じ連れの仲間とことさら大きな声を出して話をしているが慣れない場所に放り込まれた不安気な表情が誰しもの顔に見られる。
 
 受験生の前を大きな掛け声ととともに走り去ったいくつかの集団は、今は駐車場や建物の横に並んでいる。皆、同じ方向を見て並んでいるのが面白い。バタバタと数人の隊員が警衛所から出てきて道路上に並んだ。
 おじさんもいれば自分と同じ年恰好の顔も見える。その時突然、ラッパの音と同時に何かわけのわからぬ号令とともに集団の全員が同じ動作で持っている銃をそれぞれの胸の前に掲げた。
 後になれば、それは「捧げつつ」の敬礼動作なるものであることが解るが、その時は初めて見る動作であり、とんと目の前で繰り広げられる集団動作を物珍しく眺めていた。
 そして、いつの間にか彼ら隊員の整列している前に、ひとり立たされている格好でいた自分に気が付き、その敬礼動作に合わせて、思わず腰をかがめ、彼ら隊員に向かってお辞儀した。
 声高に話をしていた同じ受験生の群れが笑った。いや自分のそのオドオドした態度に対して、笑っているかのように見えた。

 「君が代」が流れてきた。目の前の隊員は、銃を目の前に挙げたまま同じ姿勢でいるし、落ち着いて周りを見れば駐車場等の隊員達も皆、同じ方向を向いて、帽子のひさしに指を揃え、微動だにしていない。

 その時、初めて見えた。後方の木々の間から白いカタマリが上がっていき、のぼりつめるや大きくはためいた「日の丸」を。
 こんな風にして掲揚された大きな「日の丸」を感じたのは初めてであり、自衛隊での国旗に対する敬礼動作を見たのもそれが最初で、その時が、その後の自衛官人生のスタートだった。
 そして先程、たまたま隊員達の前に立たされた格好になり、彼等に向かってお辞儀した自分のオドオドした態度が今更悔やまれた。

 それから二〇数年、ある時は背中に流れる汗を感じながら、ある時は雪の中、右手の手袋だけは取るべきかを迷いつつ、またある時は、国旗も見えないマンモス駐屯地で他人の白髪まじりの後頭部を見ながら、南と北とでマルハチマルマルを待った。
 あのオドオドした時代を経て、幹部自衛官としての道をここ前川原でスタートし、平和な時代のなか取り立てていう程のない自衛官人生を送り、そして二〇数年経ったいま、またここにこうしている自分に年月の早さを感じる。

 ここをいま、巣立っていく恵まれ過ぎた?若き幹部候補生達は、これからどこでどんな気持ちで毎朝の国旗掲揚を迎えるのか……

 いずこの地で勤務しようとも"逞しくあれ"と願うのみである。
 全国一五〇箇所の各駐屯地等で、八時の時報とともにラッパの吹奏が始まった。 
    
 「気を付け !!」・・・…「敬 礼 !」
コメント

 谷口さん、いつも興味深い記事をありがとうございます。

 貴君の文才にはいつも感心しますが 今回も建国記念日にふさわしい記事でした。
 青空にはためく日章旗は素晴らしいですね。早速、印刷して部屋の壁でへんぽんとひるがえっています。
 日の丸は約30年にわたって平日毎日朝礼で眺め、人生で切っても切れない縁の深かったものだったと改めて思います。
 国旗の掲揚の始めは防大の時に1回だけ旗上げが回ってきて、上級生から風呂に入って身を清め、下着は真新しいものを着用、ズボンはプレスして靴はピカピカに磨くこと等事細かに注意を受け、当日は緊張して向かいましたが、君が代が終わっても未だ途中までしか上がっていず、曲が終わってから残りを上げたという旗上げ失敗の思い出があります。
 旗上げのコツは初めに中程までさっと上げて残りは曲に合わせてゆっくり、曲の最後に数十センチ残した旗をスーっとあげると言うことを後で知りました。

 自衛隊でも少年工科学校・通信学校で良く当直が回ってきて、当直司令として国旗掲揚を数多く経験しましたが、成功よりも失敗の経験が鮮明に残っています。谷口君と同じく国旗がポールに巻きついて苦労したことや、警衛隊が来るのが遅れて誰もいないのを幸いに3人揃って廊下も階段も必死で駆け上がってなんとかセーフだったことや国旗を反対(上下がある)につけて上がりきったところが10数センチ下がっていて、朝礼が終わって誰もいなくなったのを見計らって旗を降ろし、付け直してまたさっと上げたこと等。
 一番の傑作は大宮駐屯地の朝礼でいつもはベテランと新人のラッパ手のペアで来るのにどうしたわけか新米が一人しか来ませんでした。彼も余程緊張したのか、吹き始めても殆ど音が出ず時々音は出るものの最後までスースーという音で終わりました。朝礼に集まった司令以下数百人の隊員はどんな気持ちで聞いていたことでしょう。
 きっと始めは、「あれ、何で」と思い次に可笑しさをこらえるのに苦労したかも知れません。終わって早速、司令の元に不出来を詫びに行ったところ「今日のラッパはえらく静かだったな」と笑って言ってくれたので助かりました。(この司令は心が広い)
 今から思えば一番恥ずかしい思いをしたラッパ手にまず、慰めの言葉をかけるべきだったと思います。

 今でも時々、当直司令なのに旗揚に立ち会うのを忘れた、時間で半長靴を履こうとしてもなかなか履けない夢を見ますが、トラウマ
として残っているのかも知れません。谷口君の話で思い出が懐かしく甦って来ました。

 同期の皆さんも一度や2度は経験があるかもしれませんね        
                                                               田中 征之 記(H25.2.8)