42期 徒然草
車人生、やがて50年・・・ (その1 交通事故編) 谷口 日出男

 "ヒャーッ!"ホント!危ういとこだった。

 更に、もう一歩その子が車道側に飛び出していれば、間違いなく俺の車にぶっつかるとこだった。

 登校中の児童が列をなして路側帯を歩いている。段差もなく白線も消えて、そんな歩道と車道の区別もないところをである。
 もう、10年以上も通いなれた車での通勤路、今日も安全にと気を遣って通勤している。
 前方に、ジャレついて歩いている男の子がいた。ジャレあった拍子に押されて車道の方に飛び出してきたのだ。
 男の子のジャレている姿を見て、もしかしていう気持ちと登校中の児童の列に会うたびに、いつも心がけている徐行気味の速度だったので何とか対応できた。しかし、気持の上では、徐行しているといえ、実質には30km/h以上は出ていたか、ぶっつかれば文句なしの人身事故である。
 通り過ぎてしまってからその怖さがジワッツーと滲み出てきた。フーッ!危なかったなぁ・・・
 
 初めて車の免許を取ったのは、隊付きの時に、今は懐かしいハーフトラックと呼ばれていた進駐軍供与の半装軌車での大特の免許だった。そして富士学校でのBOC時代、滝が原の自動車学校に、夜間通って、普通車の免許を取った。そこでの教習所通いは、もうすっかり忘れたが、指導員は、ほとんどがカツマタ姓だったのが印象に残っている。

 そして、車を手にした。
 兄貴からの譲り受けで三菱ミニカ、今はない混合油でリッター13円くらいだったか。その車で今の女房をゲットした? 
 思い出の車なんである。それからは、主として中古車、所謂USED CARの乗り継ぎだった。日本各地への鍋釜引っさらげての定期異動の交通手段は、女房と子供2~3人をごんづめしての車での移動だった。そして、いまこうして片道30Kmの道を毎日、車で通っている。
 この往復の通勤距離もバカにはならず、ちりも積もれば何とやらで、この毎日の通勤をベースに、実家帰省やサッカーの遠征試合やらで、月間約2千Km、年間2万5千から7千も走る。
 前の車なんかは、この仕事に就いて、車通勤になったおかげで、10年間で27万キロも走ってくれた。これまでの数々の車に感謝である。
 そして今日もまた同じ道を同じ時間帯に走っている。約1時間の通勤時間、車の中は、自分だけの世界であり、電車通勤と違ってあれこれ思い巡らすには、快適な空間?である。いま書いているこの思いも車中にあれこれ推敲しながらの作文である。
 車とは、なんと便利でおのれの人生に不可欠なものであることを、この年になるとシミジミと感じる。
 間もなく車との付き合いもあと2,3年で、50年に達しようとしている。しかし、いつかはその車との付き合いも断ち切らなければならない時が来る。その時までは、なんとしてでも今のまま、穏やかな車人生であって欲しい。これまで車人生50年で、自慢ではないが自ら招いた人身・物損事故はない。貰い事故が2件あるのみである。それも幸い怪我もなく、大した被害でもなかった。
 無事故に関しては、表彰ものである。(誰も何もくれないけれど...) これからも貰い事故を含め、絶対に事故が無いように自分にも周りにも気を付けたい。そしてやがて来る免許証返納の時は、無事故の勲章を貰えればと思っている。
 
 対向車線で右折車を先頭に渋滞している。前方を行くどの車も止まってやって、譲ってあげようとはしない。
 自分が行く先に見える信号機は、赤なのに...余裕がないなぁ、止まってやる。右折車が目の前を通り過ぎた。会釈もなしに...なんとそのドライバー、片手に携帯を持ちながら笑い顔で運転してやがる。しかも女だ。
 このバカタレが...ホント、どいつもこいつも腹が立つもんだ。

 この車社会、一握りの互譲の心があればどんなにかスムーズにいくものを...そんな思いで過ぎ去った自分の車人生を思い出せば、あれこれと思い出が甦ってきた。
 

昭和62年1月  代行時代

 「アッ来るな!!」と鋭く感じたと同時に、中央線を越えて赤い車が、わがポンコツのワゴン車の右側面に飛び込んできた。「グァーン」と何か金属性の固い衝撃音。
 その時の相手方は、若い女性ドライバー、ハンドルを握ったままポカーンとした顔。正月三日午後四時頃、場所は札幌市の西の郊外、通称石山通り。相手はスキー帰りの若いOL二人。
 当方は、本人のみの乗車。双方とも怪我はなし。車はぶっつかった衝撃でそれぞれの走行車線側の雪壁に突っ込み動けず。いずれも前部大破。

 近くの店から電話を借りて、初めて110番なるものの電話をする。待つこと約20分、テレビ映画のように赤いランプを点滅させ、サイレンを鳴らしながらパトカーが来るかと思っていたら、雪の中を新隊員みたいな若いお巡りさんがトボトボと歩いてやってきた。
 帽子のひさしと両肩口はうっすらと雪が被っている。お互い怪我もなく、相手の女性が一方的に中央線を越えて、飛び込んできたので事情聴取上問題点なし。
 お巡りさんの指示で近くの整備工場からレッカー車出動。事故を起こしたのが午後4時頃、レッカー車到着6時頃、北国の冬の陽は短い。暗くなった雪の降る中、頭を雪で真っ白にしながら約2時間の事故処理。
 事故は、相手は、下りの坂道、北国特有のわだちのできた雪道、一歩そこからはみ出せば、もう車の制動はできない。その時も、わだちを踏み外しての中央線突破だった。

 この間、気が動転したのかそれとも何か余計なことでも言えばじ後不利になると思ったのか、彼女から私に対して発せられた言葉は、ぶっつかった当初、路上での「大丈夫ですか?怪我はなかったですか?」の一言だけ。もちろん、警察官の事情聴取に対しては、住所、氏名、スキー帰りだったのこと、スピードはそんなに出していなかったことを答えていた。
 私といえば貧乏性なのか、もともと女性に甘いのか、事故の被害者なのに専ら慰め役。「なぁーに、怪我もなく幸いでしたよ。人生の勉強代と思えばこのくらい安いもんですよ...」と。お互いの連絡先を確認して別れる。
 当方、所持金も十分持ち合わせてなく再び雪の中近くのバス停へ、彼女たちタクシーに乗車して帰宅。

 翌々日、彼女から聞いた会社に電話する。「はい、○○です。どなた様ですか? あぁ、本当に怪我はありませんでしたか?この件については、私の上司にお願いしてありますのですみませんが電話を代ります」そして男の声で「私は○○の上司の××です。この度は誠に申し訳ありませんでした。今回の事故の後始末については、一切私が窓口としてやりますので何なりと申し付けて下さい。車の修理代についても一切当方が負担します」と丁重な謝罪と今後の交渉についての発言あり。
 彼女からとうとう一遍の謝罪の言葉もないまま、この時初めて謝罪の言葉を当人ではなく上司から聞かされた。兎も角も面倒臭いことにならなかったなぁと安堵する反面、何か肩透かしを食った感じ。

 そして2~3日後、部隊へ見知らぬ女性から電話あり。「私はこの度事故を起こしました○○の母親です。誠に申し訳ありませんでした。直接お会いして謝罪しとうございます」丁重に断るも相手の意思堅く、それではと私も相手の娘さんも自由になる今夜、我が官舎でいうことになり、官舎の住所を教える。
 夕方、帰宅すると、女房から報告あり。『○○さんという年配のご婦人が一人で来られ、事故の謝罪をし、菓子折りを置いて行ったとのこと、女房は、婦人の来訪については何にも聞かされていなかったので対応に困ったとのこと、その婦人が言うには「娘はホントに良い人にぶっつかって幸いだと言ってます」とのこと等々』 今夜、母娘で来る予定の二人に何を話そうかと昼間考えていたことが全く無駄になり、泥棒猫にはいられたような感じを抱き、テーブルにポツンと置かれた菓子折りを見ながら何か釈然とせず。

 約一カ月経過、ようやく車の修理が完了した旨、整備工場から連絡あり。菓子折りを下げて車の引き取りに行く。この間、代車を借用していたのでいくら支払えばいいか恐る恐る尋ねると「いや一切要りません。当初の見積もりより修理費はオーバーし、約四十万円くらいかかりましたが、すべて相手方の保険等で支払いますから結構です。ところでお宅のワゴン車、大分年季がはいっている様ですが買い替えの際は、是非当社で...」の答え。
 約六十万円くらいで買った車に修理費四十万円とは思いながらも一切自己負担もなく、どこを取っ替え、引っ替えしたのか事故前と殆んど外観上変わらぬ車を見て、買い替えの約束は別として、礼を述べて帰宅する。
 この間、対向車に会うたびにまた飛び込んでくるのではないかとややビビリながらの運転。

 そしてそれからまた一か月経過、相手のOLからも上司という××氏からも、保険屋さんからも整備工場からも一切連絡なし。
 車の方はといえば、ドアが良く閉まらぬとか、どこかのランプがつかないとか今までそうだったのか、それとも事故のためそうなったか解らぬ事象を抱きながら、運行に支障のない範囲でやがて来る春のため、主人のゴルフ練習場通いに精を出してくれている。

 かくして松の内の事故も、節分には、車の修理が終わり、花節句の三月のいま、時効にて一切終了宣言。
 この間、相手方の会社組織が動き、保険屋さんが動き、相手の母親が動き、そして我が家の女房が動かされた。事故当事者同士の相手の女性と私の間はといえば、事故当時の「大丈夫ですか?怪我は本当にありませんでしたか?」の言葉以外「すみませんでした」「その後如何ですか?」なんての謝罪も会話のやり取りも一切なし。
 会話もなければ当人同士で示談になれば伴うであろう精神的苦痛も一切なし。
 思うたびに何かできすぎている感あり。
 二か月経った今では相手がどんな顔をしていたかも憶い出せないし、そのうち名前を忘れるだろう。
 本事案で一番儲かったのは整備工場なのは解るが一番損したのは誰なんだろう?便利な世の中というか、礼節のない世の中というか当事者の浪花節的感情を抜きにしてテキパキとスムーズに動く一面を持った世のでもある。

 俺が亡くなるときもこんなにパッパッと物事が片付いていってくれるんだろうか...
田中 征之

 毎回違った切り口で、身近に起こることを軽妙なタッチで文章にする貴君の文章能力にはいつも感心して読んでいます。
 車人生と事故は常につきまとうもので、今回の他人からの事故とそれからの人生模様、保険会社任せで意外と責任を感じていないノー天気なドライバー(女性に多い?)、それをめぐる周りの人々、目に浮かぶ様です。  

 私も谷口さんと同じく40数年、無事故無違反できていました。
 尤も悪運が強かっただけで、相手の居眠り運転でミラーを飛ばされたり、軽い追突をされたり、自分の居眠りで路側帯にぶつかる寸前で目が覚めたり、何度も危険な状態を切り抜けて来ました。

 ところが、2年前、16年乗っていた愛車(博物館行きの初代マーチ)がついに動かなくなり、よせばいいいのに 1800ccのカローラフィルダーに変えたところ、つい調子に乗って直ぐにスピード違反(1.8万+ゴールド免許格下げ) どうも車には相性があるのか、4回も左ドア下を縁石にこすって車価格の1/3を修理屋に払うことに。
  毎回修理屋の社長が「解らないように綺麗に直しますよ」とニコニコしてと対応してくれます。
 お得意さんにはならないぞ、今回で終わりだと思ってはいるのですが。どうも年のせいで左の感覚が悪くなっている様です。
 高い授業料を払いましたが、それでも自転車に接触したことを思えば自損事故で済んだことはラッキーと思っています。
 最近は狭い道を曲がるときと自転車を追い越すときは慎重に運転するよう、注意を払っています。それでも相手がはみ出したり、急に出てきたときは どーしようもないですね。
 それも予測しながらの運転は疲れます。

 今日のニュースではロシアではウインド内につけるカメラが売れているそうです。
 これは走行中常に前方の映像を記録するもので 交通事故が日本の3倍、しかも証拠がないと泣きを見るロシアの交通事情からの庶民の自衛策だそうで。
 価格も1万円ほどで 手軽な値段なことから、スマホに次ぐ人気だそうです。
 いずれにしてもあと一回の免許更新で終わりにしようとは思いますが 多分80を過ぎてもまだハンドルにしがみついているでしょう。

 危い危い。 では、続きを楽しみにしています。よろしく。