42期 徒然草

                   車人生、やがて50年・・・ (その2 交通違反編)      

谷口 日出男
                                                                 25.4.10記
 まだそこには、おまわりさんが所在無さげに立っていた。夏の日差しが強烈でとてもじゃないが外には立ってはおられない。おまわりさんが立っている場所は、丁度高速道路の高架橋の下、日陰だし前の小川に臨んだその道に、吹き抜けの風がそよいでいて、気持ち良さそうな立哨位置である。
 何かあったんだろうか?さっき通った時もそこにそんな恰好でいた。近くにはパトカーもいないし、あの官用自転車の銀チャリもない。事件でもあったのか? そばに寄って車を止める。開いてた車の窓から声を掛けた。 “ご苦労さんです!何かあったんですか?” そのおまわりさん、50過ぎか、メガネの下には汗をかいていた。やや肥満気味のおなかのベルトがきつそうである。俺の問いかけに対し、すぐには何にも言わない。俺の車を見てやがて言った。“あんた、シートベルトもしとらんなぁ、さっきここを通った時もしとらんかっただろう?”えつ!これまた絶句。“免許証見せて”と畳み掛けられる。さぁ、免許証、どこにあるか…そこにはないのである。いつも財布に入れてあるし、その時はちょっとした用事で財布も持たずに車に乗っていたのである。“いかんなぁ、免許証不携帯だな、家は、近くかい?”こちらは、犯罪者意識が芽生えてきたのか、相手はもう言葉遣いもぞんざいで横柄な態度にも見えてきた。“すみません、近くなので取ってきます”“車はここに置いといて取ってきて”フー、この暑いさなか、歩いてかい?と言いたくもなったがすべては自業自得のなせる業なり。車から降りた。Tシャツに半ズボン、かかとが止めのないつっかけ式のサンダル履きなり。“いかんなぁ、そんなスリッパを履いて車を運転しちゃー”“急いで免許証、取ってきて”暑い中、帽子も被らず小走りにて我が家へ急いだ。後で聞けば、そのおまわりさん、そこで一時停止とシートベルト違反を取り締まっていたとか、飛んで火にいる真夏の○○だったのだ。バッカ見たい。この時切られたのが白切符。その当時は、まだシートベルト装着義務はそれほど厳しくはなく、大半がまだ不十分な意識の時代だったのに俺は、生贄?になったのだ。
 車人生、約50年、交通違反歴は、これと高速道路ICのゲートで後部座席の孫どもがシートベルトしていなかった着用義務違反と併せて白切符2枚が切られた。そしてなんとスピード違反では、3枚もの青切符をいただいた。こっちは、まったく年甲斐もなくいまだ懲りずに続いている。これは自信が持てねぇなぁー。まだどこかに悪魔のささやきがあり、もって生まれた粗雑な性格が災いしている。前にも何度かペナルテイーを喰って懲りてるはずなのに…しかし、事故のほとんどがスピード違反に起因することを思えば、さらにこれからの車人生、自重自戒の念が要求される。反省を込めて過去の不祥事を曝け出します。
  ご笑読の程を。    
 H19.9.20   
 あやまち
   
  “しまった、やったなぁ!”思った瞬間、バックミラーを見るも白バイの姿が大きく映った。サッカー試合のためにいつも通る国道から外れた農道である。この間道、いままでも何度か利用している。

   “ちょっとオーバーした様ですね” 十八キロオーバーです。標識は見えなかったですか?まぁ、一番軽い違反ですのでこの反則金を納めていただければ免許証も三ヶ月できれいになり、またもとの優良運転手に戻ります。”“今、熊本は交通事故が多発していますのでこうして田舎道も重点的に取り締まっているんですよ。思わぬとこ? そうですよ、警察はどこにでも目を光らしてますよ
 “反則金は、一万二千円です。二十キロオーバーになると一万五千円に上がります。今は反則金も高くなりましたよ。”
 “ここはどうしてもスピードが出がちな道路ですので他県ナンバーの方は特に、注意が必要ですね”“サッカーの方、頑張って下さい。帰りもまたここを通るんですか?気をつけて運転してください”とこちらが素直に謝り、誠意を持って応対したのであれこれとこちらのぼやき?や感想に恐ろしいほど丁寧に応対してくれる。それだからといって許して貰えるものでもなかった。手元には、「交通反則告知書・免許証保管証」と「納付書・領収証書」と書かれた三枚綴りの複写紙が残された。
  運転中、なにかボンヤリと考えていたんだろうかそれともこの道、いつもこんなスピードを出していて、ついに天罰が下ったのか・・・。日曜日朝方、サッカー試合に行く途中、自宅から小栗峠の県境を越えて熊本の北部を走っている時にスピード違反で白バイに、とっ捕まった。
 人生三度目の懲りない同じ「あやまち」である。三十数年前のあの時と同じ様に、今度のおまわりさんも優しく丁寧だった。車で走ればたった一分もかからないようなこの直線道路、高くついたなぁ。あの時は、反則金はいくら払ったんだろうか?
 しかし、いま思えばあの時は、金額の多寡には代えられない貴重な授業料を払った。    
   

                       
 横の追い越し車線を赤い車がスピード上げて抜き去った。周りは何の変哲もない光景である。わりと賑やかな滝川の街を過ぎ、やや黄昏を感じる炭鉱街の赤平の通りをすぎると車は、空知川沿いに富良野に向かって快調に走っていた。前後には先程の車以外他にその影を見ない。対向車線も時折、車が行き交う程度で広いどこまでも続く直線道路、さすが北海道の大地である。 
  あと一時間も走れば富良野に着き、そこには中隊の先任達が迎えに来てくれ、そしてそこから彼らの誘導で小一時間も走ればやっと赴任先の上富良野に着く。

  長い道程(みちのり)だったなぁ・・・。
 熊本で、部隊のみんなに見送られて一族郎党、鍋釜引っさらげて高速道路もない時代、九州を北上し、小倉から瀬戸内海を渡り神戸に着き、近江・滋賀を横切って、また敦賀からフェリーに乗って日本海の荒波を横切り、喘ぎ喘ぎやっとこさ小樽に辿りつたのは、本早朝だった。熊本を出て三晩が船中に、一晩が途中の宿泊まりだった。二才になったばかりの息子にまだ一才にも満たない長女の幼児二人を連れての九州熊本から北海道のど真ん中・上富良野への転属である。
  昭和四十九年の夏、今と違い紙おむつもコンビニも無い時代、幼児二人にオシメを百枚以上も用意した。ミルクも充分でなくしかも真夏の移動であれば侭ならずフェリーの中でミルクを切らし、夜中に船のパーサーに頼んで厨房から粉ミルクを分けてもらった。お湯で溶かされた暖かい粉ミルクを厨房のゴッツイ男から無愛想に手渡され、幼児二人がその粉ミルクの哺乳瓶に齧り付いて飲む姿を見て、ゴッツイ仏に心から感謝した。
 そして小樽港では、同期や先に渡道していた先輩家族が早朝にも拘らず千歳からわざわざ小樽まで、迎えに来てくれていた。心づくしの朝食まで準備して。旅先で感じる他人の恩である。苦労も然ることながら他人の恩を感じた旅も間もなくゴールである。先程から対向する車がライトを点滅するのが気になった。俺の車ライトをつけっぱなしかなとスイッチを見るも異常なし。また、対向車からライトをチカッ、チカッとされた。なんなんだろう?  

 ひとつの集落を過ぎた途端、前方に赤い車が止まっている。いや止まらされていた。傍に大きな黄色い旗を持った白ヘルメット姿の交通制服の警官が立っている。“やったねぁ、あの赤い車、スピード違反にひっかかったな、あれじゃ、捕まるだろう”と思った瞬間、その黄色い旗の警官、俺の車も手招きした。指示に従って徐行。左に大きく空き地がありその向こうにパトカーと白いワゴン車が停車している。何で俺も?と思うも誘導に従って赤い車に続いてその広場に車を乗り入れる。息子が“ほら!パトカーがいるよ!”と叫ぶ。車から降りてワゴン車の方へ向かう。白いワゴン車の前には長机がありそこにはお巡りさんがこちらを向いてカモ(?)のお出ましを待っている。車から降りようとすると、息子が火のついたように泣き喚く。自分もお父さんと行きたいのである。仕方なしに子供を抱えて行く。妻は、眠っている長女を抱いて俺を見送る。暑い中での引越し準備それに続く幼児二人を連れての長旅、そして予想だに出来ないこれからの蝦夷の地での生活を思えばその心労で彼女の表情も乏しい。

  熊本からですか?旅行ですか?やたらと優しい言葉づかいである。しかし、相手はお巡りさんである。十七キロ、オーバーですな、この切符を持って近くの郵便局から払い込んでください。なに!十七キロ位でも、とっ捕まるの?しかし八十キロ近くも出すわけがないのになぁ・・・。
  あそこは四十キロの制限区間だべ。見えなかったかい?と別なお巡りさんが北海道弁で答える。
 そりゃー、標識が見えてネズミ捕りをやってるとわかればスピード落としたのに・・・。こんな直線道路でしかも交通量の少ないところでネズミ捕りをしてと先ず反省するよりおのれのあやまちを悔やむ。
 そうですか、今朝、北海道に着いたんですか、小さな子供さんを連れての転勤は大変ですね、北海道は初めてですか?これからも気をつけて下さい。坊やパトカー好きか?

余計な事を・・・。別れ際、息子、おまわりさんへバイバーイ!

 そうか、さっきの対向車のライトの点滅は、ネズミ捕りの合図だったのか、知らなかったなぁ・・・。九州・熊本じゃネズミ捕りなんて見もしなかったけどなぁ・・・
 小一時間走って、富良野到着。みんなに会う。中隊長、長旅大変だったですねと初めて会う先任(中隊長の女房役)が大きな笑顔で迎えてくれる。早速、中隊長と呼ばれる気恥ずかしさとほんのいっとき前のこの中隊長が犯した服務事故の罪悪感が重なり複雑な心境なり。
 また何でこんな時に、あ~ぁ・・・。

   申告します。明けて次の日に、大隊長に申告。一通りの挨拶の後、前夜ほっかぶりするかで走った心の迷いを棄て、実は・・・と早速昨日の事故報告。それを聞いた温厚そうな大隊長、うーん、それでどうするの?どうすると聞かれてもどう答えてよいか、このくらい?での事でまさか中隊長上番を辞退しますなんて事は言えないし、兎にも角にも厳正な処罰をお願いしますと申し上げる。大隊長、傍(かたわら)で聞いてた幕僚の意見を入れて「処罰なし。今後の中隊長の統率に今回の教訓を生かして下さい。」借りが出来た。この大隊長のためには・・・と心に堅く誓う。  
 さすが日本最涯の北鎮部隊、着任式は只今野営中の演習場で行われた。急拵えで作られた土盛りの観閲台の前を、もうもうと土ぼこりとマフラーからの排気煙を巻き上げながら六一式戦車が目の前を通り過ぎていく。観閲台からほんに間近に見える車長の顔が日焼けで逞しいが会わせる眼は、殊の外優しさ?を感じる。俺が中隊長なんだ、彼らのためには・・・と身体中に得も言われぬ感情の高ぶりが湧き出てくる。
 中隊が野営中であれば俺もそのまま野営地に残留し宿営する。この間、家族はまだ荷物が届かぬ中、ご近所さんのご厚意でこれから始まるであろう主(あるじ)抜きの母子だけの北海道の夜を過ごしている。その夜、この「上富良野演習場泉第二宿営地」で早速中隊長の歓迎会が催うされた。初めて目にする根わさびやアイヌネギが何よりのご馳走なり。それまで九州の部隊では、宿営地では禁酒だったのでこんな光景があるとは思っても見なかった。彼らにすればそれが当り前なんだろう。若いのも中年も大いに飲みそしてジンギスカン鍋を突っついている。
  中隊長!おりゃ!その中隊長の正直さに気にいった。今度の中隊長の為にはなんでもする!と俺より年上だろう、夏というのにラクダ色した官品の防寒シャツだけの隊員が酌をしにきた。階級も名前もわからない。飲んだ酒の勢いか矢鱈と元気がいい。するとまた何人かの上級陸曹(下士官)が近寄り、中隊の隊員に対して俺が述べたことを話題にした。それは、大隊長臨席のもとで行われた着任式での中隊長訓示でなくて、その日の午後、新任中隊長と部下だけの集まりの中で初めてした話だった。 自己紹介やこれから中隊長としてどうやって行くかその考えを話した。ある者は顔を上げて聞いているし、ある者は棒っきれで地面を突っついている。まだ一方通行である。迎える側も二年置きに交代する中隊長、まだこの段階では前任の中隊長の意識がぬけていない。今思えばそうだよな、三十そこそこの若もんが身も知らぬ七十数名の部下を突然、持たされて統率していくんだから・・・それに今まで熊本での米軍供与のM二四TK部隊から国産六一TK部隊への変換なのでそれも俺にとっては大変である。

  最後にきのう北海道に上陸し、赤平過ぎたところでネズミ捕りに捕まりました。と話を切り出した。途端に、ドッと座が沸いた。そしてきのうの出来事から今朝の大隊長とのやりとりを全てを淡々と話をした。それまで眼も合わさなかった者までが顔を上げ、それこそ次は何が飛び出すかを待つような眼で俺を見た。
  ということで私は、今度の自分のスピード違反に対しては、大隊長から何の処分を受けませんでした。従って、私は、中隊長在任間、諸君のスピード違反に関しては、中隊長としてやる処分は一切、しません。スピード違反し警察にとっ捕まったら、すぐに私に報告してください。言おうか言うまいかで迷っていた胸の突っかい棒が取れたのか、隊員の間を吹き抜ける風は、この暑い夏の時期、とても九州では味わえないヒンヤリしたものを感じた。
    中隊長!誰でもあやまちはあるもんですよ。問題は、それが起こった時とその後の行動をどう取るかで人間は決まるんですよ。スピード違反犯した中隊長は、何と言っても悪い。自分でも仰ってた様に間もなく到着するんだという気の弛みがあったんですよ!と先任が言う。だけどその後は良かった。中隊長、大丈夫ですよ!我々がしっかり補佐しますよ。なぁ!みんなそうだろう!と先任の大きな顔が更に酒のせいか赤らんでいる。俺はみんなの注視のもとコップを空けている。どっちが指揮官かわからない。
  こうも反響が多いと中隊長としての責任放棄の話が果たして良かったのかと頭の中で反芻する

  夜更けまで続いた野営地の宴も消燈近くになってようやく終わった。夜中、食べ慣れないアイヌネギのせいか喉の渇きを覚え目が覚める。中隊長だからと個室の二号屋根型天幕である。何時頃だろう。天幕の外に出る。まったくの真の闇である。いや目が慣れるに従って周りがボンヤリと見えてきた。空を見上げると満天の星である。こんなに空に星があったとは、北国の空で見る大パノラマである。   向こうに人が歩くのが見えた。そうかあそこは中隊のTKパークだ。近寄っていく。誰だ!鋭く誰何(すいか)される。中隊長!とスムーズに言葉が出る。異常ありません不寝番である。飲んだ後の不寝番ではきつかろう。取りとめもない話をする。道内出身だという隊員がいう。
 “中隊長、今日の昼間の話は良かったです。何にも言うことがないからお世辞でも言ったのかと不図持ち前のヒネクレ心が湧き起こる。ご苦労さん!それじゃ頼むよ!”“ハイッ、中隊長も今晩はゆっくり休んでください!
  足元を懐中電灯で照らされて、見送られる背中に大きな温もりを感じながらその場を離れた。
 その頃、幹部は、七月半ば頃が定期異動であり、陸曹諸官は八月初めだった。中隊内の人事異動も終わり、その後の盆休みも終わった八月の末それが起こった。なんと三件のスピード違反の服務事故が報告されたのだ。幸いなこと(?)にその超過違反速度は、軽微ですべて中隊長の処罰権限の範囲内だった。約束どおり、形式上は不問に付した。大隊長にも報告しなかった。
 そして雪が散らつき始めた十一月の頃、隣の中隊で七十キロを越えるスピード違反が出て警察に検挙された。何でも夜中、岩見沢付近で百キロ以上も出していたそうだ。
 雪の真冬より寒さを感じるドンヨリとした朝礼で大隊長が話をした。この大隊長、北大出身のやや自衛官離れした人である。さすがTKマン、師団のスピード違反記録を塗り替えたと話を切り出し、日頃の小さな悪行の積み重ねがそこに顕れるから中隊長等はその芽を早く摘むようにと諭された。
 それから数日して、我が中隊で夏以来のスピード違反が起きた。今回も処分は同じだった。そして、上級陸曹以上を集めて大隊長の言われる芽を摘むために、今後の対策を話し合った。すでにそれまでは軽微な服務事故例えば帰隊遅延(門限まで外出から帰ってこないこと)とかはあった。
  そりゃー、中隊長が悪いんです。自分が罰せられなかったから部下を罰っせないというのはおかしいし、みんなも認識が甘くなると思います。中隊長は、営内陸曹の帰隊遅延には厳し過ぎ、スピード違反には甘いのは矛盾しています。上級陸曹の堂々たる諫言(かんげん)である。
 毎晩の様に隊外の下宿に外泊する営内陸曹が一分でも遅れようなら厳しく処分した。状況次第では、即六級賞詞を下した。(中隊長には五級賞詞しか付与権限はなく、この六級賞詞は名前と違って注意等の懲戒処分の別称である。)まさにその通りだった。 さぁ、中隊長としてなんと答えるか?
 自分としてもここで方針を変えることは絶対に出来ない。それじゃ、処罰すれば違反は起こさないかと答えても相手とのすれ違いになり、歯車は噛み合わない。こうなると相手の言わんとすることを真摯に聞き、そして己がやりたいことを相手に解って貰うしかない。 そしてお互いが自分で言っていることの是非を問うたのである。感情を抑え相手を傷つけないようにそして何よりも自分の言い訳にならないように話した。ネズミ捕りにとっ捕まってという日頃の己の言動も謝った。その場での正解は出なかった。しかし何かが得られた。
  それは中隊長が己を棄て掛け値なしに彼らのために努力すれば答えが返ってくるのだということを。そして何よりも彼らと中隊長の間に掛け値なしの人間関係を築き上げることこそが全てじゃないかと感じた。
 その後、何回かの軽微な服務違反は起きた。しかしスピード違反は起きなかった。ただ訓練事故で小隊長が戦車の車長席のハッチで指を切断したのが痛恨の訓練事故だった。日頃からハッチの留め金を鎖で留める躾をしていなかったいうことで俺も指揮官としての管理責任を問われ、初めて六級賞詞を頂いた。ボーナスにも響いた。

  可もなくそう大した不可もない二年間の中隊長勤務だった。その当時の若き中隊長が誰でもそうであったように薄給の身で幼子を抱えた妻の献身的な協力なしには考えられない職務遂行だった。ただ、在任間、中隊長の統率の基は、この野営地での最初の夜にあり、その後の部下の諫言で味付けされた。
 その部下もすでに先任をはじめ三名の方が物故者となった。叶わぬことだが不図、その当時の仲間達と静かに酒を酌み交わしながら、それも野営地なんかで話をしてみたい。その時は言われるだろうな?

     またですか!中隊長!