42期 徒然草 谷口 日出男
ねんりんピック(友に会い、そして友が逝く)

  ? 広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず~? 
 大音響のスピーカーから会場いっぱいに、さとう宗幸の唄が流れている。初めて聞く「青葉城恋歌」の全曲である。♪ 瀬音ゆかしき 杜の都 あの人は、もういない~♪ 愛しい人を思う恋歌なんだろうがそれは、レクィエムに聞こえる。
 初めて、唄を聞いていて、心で泣いた。唄で心がこんなに切なくなるなんて・・・スタンドに居る各県の選手団それに地元の観客、誰もがそんな気持ちなんだろう、みんな黙って大型スクリーンに映し出されている歌手の映像を見つめている。
 



グランドでは、マスゲームを終えたそれぞれの出場チームがひとつの大団円になって、「絆」というヒト文字を描いている。
 メインステージ横は、常陸宮両殿下を初め、宮城県知事等のお歴々の方々が椅子席に座っているのが遠く見える。唄は続いていく。このマスゲームに出た人たちの中にも何人かは、肉親を亡くし、知人の哀しい報せに遭ったんだろう。
 そんな思いで幼稚園児の可愛い仕草を見ていたら、途端に涙腺が緩んできた。 


60歳以上の国体ともいえる「ねんりんピック」がここ宮城県の仙台市を中心会場として、全国47都道府県と20の政令都市から、約8,500名の選手が18種目の競技種目に参加し、開かれた。
 大震災で大会の開催そのものが危ぶまれたが、全国の皆様に復興の証しを見て貰い、これまでの間に寄せられた数々の支援に対し、お礼を述べるために今回の開催実現とこぎつけたそうである。
 
 この大会も今年で25回目とか・・・いつもの壮大な開会式を経て、それぞれの地で競技が実施された。
 国体と違うのは、競技種目がスポーツだけでなく、将棋・囲碁・ダンスに吟行とあれこれの文化活動もあるのが特徴である。その中には、健康マージャンなんてのもある。
 この種目に出ている知り合いの出場選手、これはボケ防止には非常に効果があるとかで自画自賛している。そーかな?ボケるときは誰でも一緒じゃない? まぁ、老いてもなお盛んなのも結構なことである。
 
 俺も今年で5回目の出場である。種目はサッカー。こっちは全部で56チーム参加、それを4チームにグループ分けして、各チーム、2日間で合計3試合行う。それ以上のトーナメントゲームはない。 
 わが福岡県選抜チーム、今年の対戦相手は、サッカーどころの埼玉に兵庫に山梨と強豪揃いが相手、結果は、いずれも対ブラジル戦並みのスコアで完敗。まったく相手が強かった。
 去年は、1勝1分、その前の金沢大会では、2勝1分でグループ1位だったのでそれなりの勝算はあったんだが・・・残念なり。
 
 ただ、わがチームのエスコート役の利府町役場職員には、勝てるところを見せれなかったのが悔やまれるところなり。
 それぞれのチームには、大会期間中、こうして地方行政機関の職員があれこれと面倒見役で就いてくれるのもいつものことだった。感謝である。色んな人に支えられてこの行事が行われている。
 宮城スタジアムでゴミ拾いしているボランテイアの老人たちと話した。ありがとうございますと言うとそのひとりが答えた。
 "なんの、こうして皆さんのお役に立っているうえに、弁当付きでこんなユニフォームまで頂いてそれにこうして仲間と時間をつぶせるのが一番いい!"と。お互い感謝とお礼の言葉のやりとりである。
 
 折角この地まで来たんだから単なる観光地巡りより、震災現場をまだ感じられるところに是非行って見たいとチームの中から発言あり。そこで俺の出番となった。仙台に居住する同期の友に電話。急な申込だったが二つ返事で、快く引き受けてくれた。
 2日目試合終了後、友が、早速会場から俺のほかに3名のチームメイトを連れての案内。3名は、いずれも元学校の先生でまた小中校の校長経験者でもある。そして、南三陸町から石巻となんと200キロに亘り走行しての案内だった。車中、彼がわざわざ準備してくれた資料を見ながら、震災当時の話、そしてその後の何度か出動したボランテイア活動での苦労話を聞き、長い道のりを経て、現場に到着する。現場を見て改めて知る惨状である。
 
 ガレキ等は道路上からは片付き、流失した家屋の跡には、雑草が生え、もともとそこはそんな荒れ地だったのかと見紛うような光景である。しかし、そこには歴然と人が住み、人が生きそして普通の生活が営まれていた。
 今でもネットのYou Tubeを見ればその惨状は、リアルにそれこそ微に入り繰り返し見ることができる。街並みがあったことそしてそれがホーキで払い去ったみたいにきれいに無くなっていることはその映像でわかる。だがなぜか今もそんな生々しい映像を見る気にはなれない。こうしてその場で感じた気持ちを表そうにも言葉が浮かんでこない。他の三人とも何かを感じているんだろう、
 
 帰りの車中でも声少なく、車窓から通り過ぎていく廃屋や一階部分がベニヤ板で完全に封鎖された校舎を見つめていた。通り一遍の慰みの言葉が無益であることを感じながら・・・
 
 蛇足ながら、三人から、案内してくれた友への感謝とこうして行く先々でこうした友を持っている俺に対して、改めて見直してくれたことも、控えめに感ずる慶び?となった。
 "谷口さんたちの仲間、凄いですね、全国区ですから、どこに行ってもこうして面倒見て貰えるなんて羨ましいですなぁ、われわれは福岡県内だけだもんなぁ"と、元日教組側?が体制側を見直してくれる。
 
 その夜、案内してくれた友にもう一人在仙の友が加わり飲む。彼はUである。現役の頃、しばし彼との年賀状のやりとりが続いた。彼との付き合いの元は何だろう?ずっと疑問だった。同じ職種でもなく同じ駐屯地でもなかった。しかし、さしてそれを詮索することなく義務的な年賀状交換は続いた。
 見知らぬ顔だった。早速聞いた。"幹候校の時に、お前やほかのBの○○達と下宿が一緒だったろう?"そうか、あの昭和42年の久留米時代に、久留米市の元遊郭街の近くにあった日曜下宿が一緒だったんだ。その時、彼と一緒だった記憶はないがその下宿、先輩からの申し送りで、日曜日になるとBもUもそれにIの候補生も一緒になる下宿だった。夜は、その下宿の奥さんの手料理に舌鼓を打った。彼とは、そん時のホンの半年の付き合いだったのである。
 
 彼は、リタイア後は、全国的に展開する運送会社に就職し、そこで人材育成のために柔道部を作り、それを育て上げそして全国大会に出場、優秀な成績を納めるチームを作りあげた。その会社でも枢要な位置まで上り詰めた。彼が言う。"大学に入り、自衛隊にはいれたのは、親の力、第二の人生で、こうして大きな会社にはいれ、おのれの価値を認めて貰い、今日あるのは、自衛隊の力、これに感謝して、これからは、自分の力でもう一花咲かせたい"と。
 がっしりした体躯の彼を、敗戦の疲れと飲み過ぎた酒でしょぼくれたまなこで見直す。凄いなぁ、その心意気・・・
 
 前日の夜は、亡き友の奥様と同じ職種だった友人ご夫妻と飲む。あの日から1ヶ月も風呂にはいれなかったことや子供・孫家族と同居を余儀なくあれこれ苦労させられたけど逆に、それが家族の絆を深める大きな糧になったことなどの話を聴く。誰もが大変だったんだなぁ・・・改めて知る皆様のご苦労である。こうして2夜に亘る同期との楽しいゆうべは過ぎた。
 もう、二度と会うこともあるまいとお互いの健康と幸せを願って、今生の別れ?をする。
 
 羽田からの機中、思うことはそれぞれのあのころといまとの比較である。
 高校時代のサッカー遠征試合、コメを持っての汽車の旅だった。着いた旅館のトイレの落とし紙は、四角に切られ積んであった古新聞紙だった。
 防大時代での練習、暗くなったら、ボールに石灰を塗り、その白さを目印にして練習をした。ヘッデイング避けたら先輩からどやされた。練習が終わって、飯に間に合うように慌てて風呂に入るもんだから、食事時には、額の生え際にまだその石灰の粉が付いていた。そんな顔が目の前で食事をしている。
 島津である。それこそ4年間、夕食時のテーブルは、ほとんどが彼とのトイメンだった。先輩方の栄光を肩に、年々ほかの大学が隆盛していく中での苦難の校友会活動だった。 最上級生時は、キャプテン島津、サブキャプテン谷口の弱体首脳陣?で、とうとう関東リーグから地方の県リーグへと陥落した。そんな苦労仲間である。
 それから、卒業後も全国各地の赴任先の至るとこでボールを追っかけ、仲間が出来た。そしてそれが今日まで続いている。
 
 今は、ナイター設備があり、あの青々とした芝生のピッチで寝転びながら、そんな昔のことを思っていた。中学時代、サッカーに出会い、各地で友と育み、こうしてこの歳になるまでプレーができることに感謝である。県からの補助金半額支援による4泊5日の仙台行きは、仙台の友のお蔭でこうして貴重な思い出となった。すべての友にそして県にも感謝である。

 


 我が家に帰り、メールを開く。訃報がはいっていた。なんと、島津昌夫君である。

 40数年ぶりに懐かしい友に会う一方、青春時代、共に汗を流した友がまたひとり逝った。

 島津君、彼は、大阪出身の育ちのいい?ボンボンだった。
 いつか夏休み帰省するときに大阪に寄った。昼間は、二人して甲子園で高校野球の見学、そしてその夜は、彼のご家族に夕食を招待された。
 父君は、お医者さんだった。慈愛のこもった目で見つめるご両親の前であれこれと話をした。終わりに父君が穏やかな顔で息子に言われた。"まぁ、あれこれあるだろうけど、先ずは、お前がやんなさい!"と。
 あのミナミの高級料亭?での恵まれた情愛溢れる家族の食事光景とこの時の父君の言葉をいつでも思い浮かべることができる。

 彼は一年の時から準レギュラーだったが、如何せん怪我も多かった。試合に出れない日々が続いた。しかしいつもグランドで黙々とリハビリと練習に励む姿が見られた。
  ゲームが終わっても自分を卑下することなく相手を讃える術もわかっていた。あの時代、勝負の世界?でこの気持ち持つのは難しい。しかし彼は、いつも前向きで明るくジェントルマンなスポーツ選手だったのである。
 その後の彼の交友関係の広さもこれが元だろう。

 そんな彼がもう、逝ってしまった。もっと走り回りたかったろう、そして彼の口癖だった"俺がズバッーとシュートしたんだが、キーパーにはじかれてしまった!"のセリフが懐かしい。(そんなにズバッーとでもなかったよ)


 (防大11期サッカー部、航空の能勢そして海上の大串に続いて今度は、陸上の島津が逝った。
 合掌! 三人へ、わが想い、とどけ!!キック!! )

 (でも、とどかんだろうなぁ・・・もう、ショボクレ球しか蹴れんからなぁ・・・
                  しまづーっ!
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