42期 徒然草 田中 征之
押本先生の思い出

 先週の金曜日1338押本先生が逝去されたとの訃報を受け、月曜に妙蓮寺(東横線妙蓮寺駅前)で行われたお通夜に参加しました。お通夜は卒業生、先生方、知人が集い、先生のお人柄を偲ぶようにしみじみとした、それでいて暗さの無いものでした。

 私と押本先生の出会いは卒業研究で押本研究室にお世話になったのが始まりで、4年になって卒研の研究室を決めなければいけない事になって、はたと困った時、押本研なら引き取ってくれると言う話を聞き、村上(行利)、新井君と3人で頼みに行きました。
 始めてお目にかかった先生は大柄な体で、メガネの奥に柔和な目をした方と言うのが第一印象でしたが、すぐに「何時でもいらっしゃい」と快く引き受けてくれました。
 学生時代柔道をしていたということで、防大柔道部の顧問をされていたことは後から知りました。後に先生の還暦を祝う会や、勲章受章を祝う会には柔道部のOBが多数来ていました。

 卒研は皆さんもそうだったかも知れませんが、4年生の特権で夜は殆ど研究室に行き、ラーメン構造の研究?に勤しみ、雑談で楽しい時を過ごしていました。
 先生は新しい物がお好きで、当時最新のソニーのトランジスタラジオが先生の机の横に置いてあり、その音質の良いラジオを聴くのも私の楽しみの一つでした。
 卒研の導入として、当時先端であったトランジスタの講義をしてくれて「難しいことを分かり易く教えられるのがホントの先生」と言われたのが印象的でした。
 その時のトランジスタの話は、後に少工校での電子教官、通信学校での教官(併せて10年)稼業で大いに役立ちました。

 そうこうするうちに秋も深まった頃、来週、卒研の中間報告会をすると先生から突然言われ、何もしていないのでどうすることもできず、当日を迎えました。
 ちゃんと真面目に卒研をやっていた井上君のグループは大いにお褒めに預かり、残りの3グループは「君たちは何をしに来ているんだ」としつかりお小言を頂戴しました。
 当たり前のことですが、学問に対する厳しさを実感し、それからは「点接触型のマイクロ波検波器の特性」というテーマに向かって検波器を作っては特性を測る繰り返しでした。
 この卒研指導を実質的にしてくれたのが当時助手として押本先生の研究を一緒にやっていた菊池先生で卒研の指導の他、お小言を頂戴してしょんぼりしている我々に「押本先生は厳しいことをいっても本当は君たちを息子のように思っているんだよ」と慰めてくれ、お世話になりました。

 押本先生の奥様も素晴らしい方で仲睦まじく、後にお宅に何回も招いていただき、手料理をご馳走になりましたが、お子さんに恵まれず、お二人共、その分、在校生、卒業生に愛情を注いでくれているのかなと思いました。
 通信のBOCで久里浜に戻った時に卒研グループで久しぶりに防大に行き、押本研に挨拶に行った時には「良く来てくれた」とその晩、横須賀の料亭でご馳走して貰ったこともありました。 
 また、4年最後の授業で押本先生が「レーダーに使われるマグネトロンの発明は実は学生の実験で、ある学生がデータをグラフ化した時に小さな突起が出ているのを見逃さなかつたことにあった。
 実験は大事で、データはすぐグラフ化することが肝要」と言う話が印象に残り、後に基礎電子の教官でレーダーの構造・原理を教える時にいつも学生にこの話をしました。
 押本研は卒業後も「押本一家」の絆が強く、毎年「押本先生を囲む会」を開催して実に40年余も続いています。
 あるときこの話を会合で先生にしたところ、「そうか(出来の悪い)君もあの時の話を理解して役立ててくれたか」と喜んでくれたのが今もって印象に残っています。

 少々専門的になりますが、学生が見逃さなかったグラフ化した時に出た小さな突起は実は「発振」という現象で、電子が磁界の中を円運動をする時にそのエネルギーを与えるので起きることが分かりました。
 これによってマグネトロンが発明され、マイクロ波の大電力を作る(送出する)ことが可能となつて、レーダーの実用化に進んだ訳です。
 レーダーの軍事的に果たした役割は大きく、その実用化によりイギリスをナチの空襲から救い、日本海軍の得意の夜戦も、こちらが見えぬ間に米軍は正確に日本軍の艦艇の位置を正確に探知して弾が飛んでくるのですから、夜戦の効果が全く無くなりました。
 レーダーはその後も進化し、イージス艦のレーダーはその最高の性能で北朝鮮のミサイルを探知するまでになっています。

 「押本先生を囲む会」では、参加した卒業生が「今こんな仕事をしていますとか、こんな研究をしてます、こんなことに興味を持っています」と言うことを各人が発表するのを、先生はお酒を飲みながら嬉しそうに聞き、論評を加えることを常としていいました。
 お酒について言えば、記憶に間違えがあるかもしれませんが、作り酒屋の息子として生まれたこともあり、大変「お酒」が好きなようでした。
 また、専門以外のことにも色々な分野に含蓄と興味がお有りでした。
 晩年には日本の歴史・文化にも興味を持たれ、邪馬台国の九州説の研究成果などを話されたり、毎年違ったテーマの話が面白く、「それに惹かれて」人が集まりました。
 「朋あり遠方より来るまた愉しからずや」(優れた人の下には自然と人が集まる)という言葉がぴったりの先生でした。

 まだまだお元気でおられる、話をお聞き出来ると思っていたのに、肺炎で先週から入院中のところ、快方に向かったので退院をするかという矢先に容態が急変して逝去されました。
 がんを患っておられたこともあり、90の高齢ということもあり、頑強な体の持ち主の先生もさすがに、天命が来たということかも知れません。

 大きい体に見合う大きい心を持った先生だっただけに、もうお会いして薫陶を受けることもかなわない、お話を聞くこともできないことは誠に残念ですが、その教えはいつまでも心に住み続けることでしょう。

 卒業生の多くに「自分の息子のように愛情を注がれた」押本先生を忍び、拙い自分の体験を記して追悼の文と致しました。 

 ご冥福をお祈り致します。

押本先生の思い出 米堂 征男

 田中君の投稿を見て、私から押本先生の思い出を2つ披露したいと思います。

 1.同期の皆さんより約4ヶ月ほど早く先生の指導を受けていました。学問ではありません。
 先生はワンゲルの顧問をしていた長谷川太郎教授と一緒に、昭和38年12月の冬休みと同時に、蔵王のワンゲルの合宿にスキーの指導に来ておられました。
 ハナタレ小僧の私から見ると先生は体も大きく、厳しく指導されたので、なんとなく怖いおっさんのように感じておりました。
 2年生の冬休みも同じように来ておられたと思います。
 先生曰く「スキーは力学だよ、いかに遠心力をコントロールするかだよ」

 2.クライストロンの実験のレポートを提出しに行った時、遅れて出したため一寸図書館で調べていきました。
 先生はパラパラめくって、実験結果の記録を見て「これを何と言うかわかるかね?」。
 「いえ、わかりません」。

 電圧をかけていくときと、減圧していくときの波形の立ち上がりに違いのできることについての質問でした。
 「これはね、ヒステリシス現象というものだよ」。

 この時の印象が未だに忘れられません。学生に対して本当に真面目に対応されていたのですね。
 もっと指導を受けておけばよかったなと思います。羨ましい限りです。

 押本先生、ご冥福をお祈り致します。有難う御座いました。

                                                                (H24.12.15記)