42期 徒然草 谷口 日出男
リトマス試験紙

 退職して変わったことといえばいつもお金、所謂日銭って奴が要るようになったことか。

 現役の頃は、制服姿の通勤スタイルであれば毎日が家と部隊との寄り道なし(ホントか?)の往復だったし、昼も部隊での有料喫食であればそう日常お金を使うこともなかった。
 しかし退職してこうしてシャバで勤めると毎日の昼飯代、仕事終わっての一杯飲みの付き合いとか結構出費がかさむ。財布にはいつも黙って妻が補充してくれる。
 そんなに潤沢ではないが日常生活には事欠かない。どこにそんなお金があるのかなと思うくらいに打ち出の小槌のように沸いて補充してくれる。感謝である。
 それでも今回はさらにお金が要った。使えばまた補充してくれると思うも、今回は他で捻出したかった。必要額二万円也である。

 久し振りに銀行に行く。大手銀行の地方都市の支店銀行、ATMのコーナーに行く。6台ほどのATMが並んでいる。先客は左端にオバサンが一人、他はみんな空いている。
 一番右端のATMに向かった。この時の気持ち、何か面接を受けるため試験官の前に進み出るような感じである。
 ATMの前に立った。途端に目の前に通常でない光景を発見する。現金引き出し口になんと一万円札が一枚きれいに立っている。
「えっ!なんで?」
 まだ自分のカードを入れない先にすでに一万円札があるのが唐突だったし、そんなところにお金があるなんて考えもしなかった

 一瞬たじろぐ。わかるかなぁーこの気持ち?そして思わずあたりを見る。左端のオバサンは画面を一生懸命見ながら前のキーを叩いている。更に、ご丁寧にこうべを廻して後ろまで見る。誰も居ない。窓口カウンターは、ATMコーナーの更に右にあるのでここからは何にも見えない。オバサンと俺だけの空間である。

 一万円札を摘む。そして何故かそれをまた元に戻した。間違いなく一万円札であった。(その時、そうか、二万円下ろす予定だったのであと一万円でいいかなんては露ほどに思いもしなった。本当に!!信じて!!)

 また時が過ぎた。発見してから少なくとも一分近くは経っただろう。(証拠の記録映画にすれば十分なコマ数である。)
 決心する??一万円札を再度掴みだし、窓口の方に行く。事情を説明し、お金を渡す。こちらの名前と連絡先を聞かれる。断るも相手の女性が更に聞く。ここでまた失態。断ることも出来たものをどっかに先程のひけめがあったのかつい答えてしまった。 
 二万円を引き出し、何となく後ろに視線を感じながら銀行を出る。
 
 そしてその日の夕方、件(くだん)の銀行から電話あり。先程のお金は持ち主がわかりました。どうもありがとうございましたと丁寧なお礼の言葉を何とか部長から聞く。
 窓口で応対した彼女の上司なんだろう。銀行員らしく丁寧な言葉づかいの応対であった。
 しかし、お礼の後に発せられた次の言葉に愕然とする。
 「ビデオにお客様の前の方が忘れているのが録画してありましたのでそれでわかりました。」「・・・!うっ!」
 「えっ!ビデオ!ということは、俺の行動もすべて映され、それを何人かで見たんだなぁ・・・」 「あーぁ!!なんということだ!」

 まさかその時の俺の気持ちまで映されているとは思わなんだが俺のあの時の行動を見れば・・・。
 隣のオバサンを見、後ろを振り返り、ご丁寧に一回掴んだ一万円札をまた元に戻したなんて・・・なんであんなに躊躇したんだろう。
 電話の主は、お前の行動はすべてお見通しだよと胸の内は思っているんだろか。いやっ、そんなことはないよ、お前さんの映像はただ流してその前を確認してただけなのでそんな気にすることもないよと自らを納得させようとするも、部長と称する相手の丁寧な電話応対に接すれば尚更のこと悔いが残った。
 どうしようもない記録映像が向こうに残ったのである。
 
 普通であれば、
 "あっ!お金だ、誰か忘れたんだろう"とそのお金をヒョイと掴み上げカウンターに持っていき、"誰か忘れてたですよ"と届け、"私の名前?いいですよ、持ち主がわかったら渡してください。"と爽やかな風を残したのに、一瞬の躊躇した行動がリトマス試験紙を灰色に染めてしまった。
 どっかに灰色になりかけた気持ちがあったからそんな行動を取ったかも知れない。だが正真正銘、俺はシロなんだ!!

閑話休題
 年老いてくると、食事どきに時たま、食べ物を口元からこぼす。それを拾う前に何故か一瞬、目の前にいる妻の顔を見る。そんな時には必ずといっていいほど妻と目が合う。
 "お父さん、またこぼして"と妻が言う。それを見ていた孫娘が"あつ、おじいちゃん叱られているー"と。
 そう、妻の顔を見る前にこぼしたものをすぐに拾えばいいものを何故か吸い寄せられるかのように相手を見てしまう。そして一言云われる。
 俺の悲しい性(さが)である。その時も隣のオバサンを見る前にこぼれていた一万円札を拾うべきだった。だが、時、すでに遅し。
 老境になるこの年になっても試される人生の心のペーパーテストである。
 どこに誘惑?が潜んでいるかわからない。そして必ず誰かにその悪事は見られている。これからもそんな誘いは、テグスネ引いて待っているだろうなぁ。リトマス試験紙が黒くならんように晩節を汚さない生き方が更に求めらている。 むつかしいなぁ・・・

 それから数年後の地方版の片隅にこんな記事が載っていた。それも半年前の犯行事案である。 ホーッ!危ないところだった。

             

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付記
 新聞の地方版に、事件・事故の小さな欄がある。そこには、日々、蠢き生きている人間模様が色々と映し出されている。その記事の中で、最近、目立つことがある。
 事件・事故を起こした人物の年齢が、60代の後半から70代前半なのを目にする時が多いことである。
 飲酒運転で歩行者をはねたとか、窃盗だったとか、果ては破廉恥行為に及んで逮捕されたなんてのもある。この年にしてと思うがそれが人間の業慾なのか・・・
 こんな年代の人がこの歳でなんでと思うと、晩節を、ボケないで心身とも健康・健全に、そして、みんなから好かれて(ここが大事か)、素直に、清く生きるのが如何に難しい時代?になったのかを感じる。
 
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 この文章(付記を除く)は、前に#11HPや「修親」に投稿したものです。一度、目にされた方には、また臆面もなくと憚れましたが、昨今の新聞の片隅に載る「事件事故」の欄を見て、まだ目にしたことのない方へと思い、このHPに投稿しました。
 ホント、「あの時、悪魔のささやきがもう少し強かったら、その後の俺の晩節は・・・」と、辛うじて踏みとどまった自分に感謝し(?)、今でも決して、清廉潔白でない?生き方をしている自分自身への自重自戒の念を込めて!

  ご笑読の程を。
コメント 田中 征之
 今回の記事は始めて拝見しますが、大変面白く?教訓を含んだものでした。
 自己嫌悪、自戒の念に駆られた心理状態が手に取るようにわかります。

 まさか、ビデオでその時の有様を逐一撮られているとは、お礼の電話をしてきた店長の丁寧な対応も「貴方は犯罪者にならなくてよかったな」と思っていたかもしれませんね。
 誰しも状況は違っても人生で何回か経験があることで、結局最後に踏みとどまれるのは、人生の中で養われた「倫理観」だと思います。谷口君は(完璧とは言えませんが)倫理観を持っていたから、一瞬誘惑に駆られても直ぐに届け出た訳です。

 私などはこの年になっても未だ、未熟、例えばゴルフ(未だ3年目の初級者)で林の中に打ち込む、木の根っこで打てない、周りを見回す、誰も見ていない、球を動かす、本当ならばルール通りにやって1打罰を申告しなければいけないのですが、どうせ仲間内のお楽しみゴルフじゃないかと悪魔が囁く、そのままスコアを書くという事が有りました。終わったあと若干の自責の念で気分よくありません。
 次からはルールを守ろうとは思いますが。

 話は飛びますが、ある高名なプロゴルファーは若い頃、よくルール無視(私のやったようなこと)をしたそうです。ところが実力・人気ともダントツだったので誰も注意できませんでした。
 彼は天狗になっていたのですが、あるとき、世界的に有名なプロゴルファーが日本でプレーした時に、彼に注意し、日本ゴルフ協会に苦言を呈したそうです。
 それから、日本のゴルフ界は後進国を脱したとのことです。

 何事も始めが肝心、そこでしっかり反省をするかどうかで、まともな人生を送れるかの分岐点になるような気がします。
 とても良いお話でした。