42期 徒然草
思い出深い台湾旅行 田中 征之

 11月29日~12月3日までゾロ目会メンバーと亀井夫人を含めて8人(畔柳・武川・寺澤・吉田(満)・田中・赤羽(空)・亀井(海)夫妻)で台湾旅行を楽しんで来た。

 台湾旅行の話が持ち上がったのは、台湾・中国を良く知る簡憲幸さんにゾロ目会で講演をして貰った時で、赤羽君の発案で「台湾に行こう」ということになった。
 畔柳君が旅行幹事となり、簡さんからは懇切丁寧なアドバイスと現地への調整、現地での案内をしてくれる浅田さんの紹介を受けた。
 航空券の手配、台湾での行動計画などすべて旅行幹事がやってくれたので大船に乗った気持ちで出発日を迎えた。

 個人的に旅行の準備で時間がかかったのはパスポートで、かなり旅行が近くなってからパスポートを見ると、なんと1ケ月前に10年の期限が切れていた。
 慌てて更新の手続きに行ったが、新しいパスポートを手にするのに10日近くを要したが、(最短でも8日かかる)何とか畔柳君が航空券を申し込むのに間に合った。
 海外旅行を予定する方は、期限切れに御注意を。

(第1日目)

 29日(火)朝9時に国際線エヴア(EVA)航空カウンター付近に集合し、8名全員揃って搭乗手続きをして出発ロビーに集合。
 10時40分離陸し一路台湾へ。
 約3時間余のフライトで台湾松山空港に着く。

 到着ロビーには案内をしてくれる浅田さんが待っていてくれた。
 浅田さんは簡さんの友人で、仕事で台湾が長く、2年前からは殆ど台湾に定住しているそうで、中国語・台湾語に堪能で、台湾の歴史地理に明るく、殆ど台湾が初めての者にとって最高のガイドだった。

 地下鉄を出るとそこはもう台湾の中心街、暑いと言われていたので、半袖のYシャツになったが、意外と暑さは感じず、長袖のYシャツでも良い位だった。

 町並みは新しいビルは殆どなく、古いビルを大事に使っていて、丁度日本の40年代という感じがした。
 宿泊するsan want ホテルに到着してチェックインし、旅装を解く。

 1日目は2組に分かれて1組は夜市へ、我々3名は浅田さんの案内で櫻崗温泉会館へ、この温泉はホテルから地下鉄・バスを乗り継いで約40分、かなり高台にある天然の温泉で42度と38度の2つの温泉があり、交互に入っているといつまでも入っていられる気がするほど、とても気持の良い温泉だった。

  風呂から上がって別室で藍さんと会食し、話を伺った。
 この方は知識人として台湾で有名な方で、台湾と日本の関係、現在の台湾、日本の統治時代からの歴史などを話してくれた。日本の統治時代は日本が唯一善政を施したと思われ、日本と同じ教育を行い、インフラを整備し、現地の人と分け隔てなく接したので、今でも当時を知るお年寄りには感謝と懐かしむ気持ちがあるという。
 それがDNAとなって今でも日本人に対する親密の情となっているようだ。
 東北大震災の時はすぐに募金活動が始まり、なんと200億円以上の義援金を送ってくれたことに繋がっている。
 この厚意に対し日本政府及び国民がどれほどの謝意を表したかというと心もとない限りだ。
 

 また蒋介石の人となりについて、虚像と実像を藍さんのお話で初めて知り、インパクトは大きかった。
 私などは蒋介石は対日賠償の請求権を放棄してくれた恩人と思っていたのだが、実は蒋介石は連合軍(アメリカ)から日本軍がいなくなった後の整理(管理)ということで台湾に入り、そのまま居座って実権を握ったようだ。

 終戦から2年後の1947年には、2.28事件で日本の教育を受けた知識人を2万人以上殺すというポルポト顔負けのことをやったということを始めて知った。
 これは蒋介石が台湾を統治する上で、日本の影響力を消すためというのだから「恐れ入谷の鬼子母神」だ。

 おまけに「対日賠償の請求権を放棄」したのは、日本人と湾生(台湾で育った日本人)を強制的に日本に帰国させる時に、手荷物一つしか持ち出しを認めず、営々として台湾に築いた財産をすべて没収し、自分の懐に入れたので、これ以上請求すると旧悪がばれるので請求できなかったそうだ。
 彼の本性が実像としてわかった。

 藍さん、浅田さん、白坂さんと吉田、武川、畔柳、田中が参加した懇親会は我々にとって実りあるものだった。
 藍さんは簡さんの言によれば、台湾の人でもなかなか合って貰えない方だそうで、きっと自衛隊の元将校がわざわざ来てくれたので、自分の思いを伝えたいと思って話をしてくれたのだと思った。

 それにしても台北市内からバス1本わずか30分でこんなに良い温泉があるのは羨ましい。

 夜市に行った別グループは美味しい台湾料理を堪能したそうで、赤羽君の提案で明日の夜、皆で夜市に行くことになった。

(2日目)

 旅の疲れで良く眠り、次の日はバイキング形式の美味しい朝食をとり、9時にロビーに集合。
 浅田さんの案内で、地下鉄と徒歩で総統府に向かった。
  多分日本の総理大臣官邸のような政治の中心であり、祭英文総統も執務しているのかなと思った。
 歴史を感じさせる大変立派な建物で、警備が厳重で外の歩道から眺めただけだったが、建物の感じからすると、日本が作ったレガシーではないかと思う。
 ボケーっと眺めていて浅田さんの説明を聞いていなかったので真偽のほどは不明。
 帰ってからウイキペディアで見たら、日清戦争の結果、日本に割譲され、日本政府の出先機関の庁舎がこの建物で、今でも総統府として使われていることが分かった。

 この後、台北二二八記念館がすぐ近くにあるということで行くことになり、昨日藍さんから2・28事件の悲劇を伺ったばかりなので興味深々だった。
 2.28事件はインターネットに詳しく述べられているが、2万人以上の台湾の人たち、しかも国を支えるべき知識人が殺されたいわば負の歴史で、蒋介石が独裁政権を敷いている間は公に語ることも出来ない状態であった。
 後に2.28事件で亡くなった方の名誉回復のために当時の事情を知る人たちが李登輝総統の後押しもあって、最大の悲劇のあったこの地に記念館を作ったそうで、記念館は静かな公園の中にあり、質素なただ住まいの建物だが募金を集めて作った人たちの思いが感じられた。
 記念館の中は当時の資料、写真や2.28事件を分り易く説明するパネル、犠牲になった方々の鎮魂のためのオブジェ(碑)など充実した展示が多かった。
 ここを訪れる人はこの悲劇の歴史に思いを馳せたことだろう。

 記念館を出て丁度昼食の時間だったので公園内のレストランで昼食となった。
 昼時と団体客があったため、いつもは多分静かな店内はほぼ満員、店員は注文受けと料理を運ぶのに大忙しで、料理がいつ来るのか心配だった。
 多少の遅れはあったが昼食を終わり、途中大きなお寺(たぶん龍山寺)に寄る。

 日本の寺院と違って正に中国のお寺で、線香も五〇センチもある長いもので、訪れる人は皆この長い線香をあげていた。
 院内はお年寄りから若い人まで一杯で信仰心の強さが伺えた。

 皆、経を唱えているが、これがリズミカルでまるで歌を歌うように唱えることが出来るので、これが人気の秘密かも知れない。 特に老人にとっては日がな一日経を唱えたり、友達と話をしたり出来るので健康に良いのではと思った。

 次は地下鉄で蒋介石を記念したギャラリーである中正記念堂に行った。
 台北市は地下鉄が発達していて、殆どの場所が地下鉄または地下鉄とバスを乗り継いで行けるのでとても便利だ。
 料金も安く数十円程度。
 台湾に降り立ってまずプリペイドカード(2000円位)を買ったが、ずい分回数を乗ったのに最後は残金が残った程だった。
 感心したのは日本では普及が進んでいない転落防止のガードが殆どの駅に備わっていることだった。
 更に台湾で一番印象に残ったのは、地下鉄に乗ると座っている女性がさっと席を譲ってくれたことだった。
 日本ではまず席を譲ってもらった覚えはないので始めは戸惑ったが、同僚がせっかくの厚意を無にしてはダメだと言ってくれて「謝謝」とお礼を言って座ったが、なんてやさしい人たちなのだ。
 台湾の人は老人を大事にするというが、それより日本の人たちと分かって親愛の情を示してくれているのだと思えた。
 身勝手で自己中の日本人は大いに見習わなくてはと思う。
 中正記念堂は遠くから見てもその壮大さに驚かされる。
 門を入って600?歩位歩いて、更に数十段の階段を上がって建物の中へ。
 
 中は広く数十の部屋があり、そこには殆どが蒋介石本人に関する写真・書画などが数多く展示されていた。

 公用車として使用していた当時の最高級の大型乗用車もあり、記憶に定かではないが自分で収集したか、送られた美術品もあったと思う。
 その中で特に目を引いたのは、アメリカの数代の大統領と一緒に写った写真で、恐らくニクソン大統領が一つの中国を認めた時まで続いたと思われる。

 アメリカの大統領が台湾を訪問した事実を示すもので、(あるいは蒋介石がアメリカ訪問をして撮ったものか)いずれにしてもアメリカと蒋介石台湾との蜜月時代があったことは興味深かった。
 蒋介石にとっても自分の権力を示す得意満面の写真であったろう。総じてこの中正記念堂を見た感じは、蒋介石は紛れもない独裁者であったこと。

 独裁者でなければ自分のためにこれだけ壮大な記念館を作ることはできないし、毛沢東記念館もそうだが、中国系の独裁者は自分の権力を誇示するため、壮大な記念館(記念碑)を作るのが好きなようだ。

 最も毛沢東の場合は死後のことだが、権力者を奉ることに変わりはない。

 記念館を出た後、この壮大な記念館を作る費用に強制的に日本に帰国させる時没収し、自分の懐に入れた巨額の財産が使われたのではという疑念が湧いた。

 ここまでかなり歩いたので、足を悪くしている寺澤君と私はかなりきつかったが、次は有名な故宮を訪れるということで、皆に送れないように頑張った。
 駅から故宮までもかなり歩いたが、遠目にも立派な故宮が見えた時には期待で足も早まった。

 中に入ると予想した通り広い展示室が1階2階と続き、そこには唐や明の時代などの陶器・磁器を中心とした美術品が見事に展示されていた。

 骨董に興味のある人ならば正に宝の山。

 私は母がお茶の先生をしていたので、お茶の茶碗は分かるが、展示されている陶器・磁器の類は美しい・見事というだけで本当のところはその価値がよく分からない。
 それでもシャーロックホームズの話に出てくる英国王室の所有する明朝の青磁のセットが非常に高価であることは知っていた。
 ヨーロッパの王室はステータスシンボルとして競って大枚をはたいて買い求めたそうだ。
 先日NHKの番組で有田焼の柿右衛門の番組をやっていたが、柿右衛門の皿もやはり王室の力の象徴として求められたそうで、柿右衛門の制作の原点となった中国の陶器・磁器が目の前に沢山あるのは正に壮観だ。
 故宮は人気があるのか、館内はかなり混雑していたが、中に修学旅行生などで黒山の人だかりになっている展示物があった。
 何だろうと人の隙間から覗くと緑と白の石の彫刻の上に輝く真珠が載っている様に見えた。
 近くで見ると何も乗っていない、そんな錯覚を覚えさせる不思議な魅力を持つヒスイ石の白菜彫刻だった。
 これが故宮で一番人気の翠玉白菜であることを出てから赤羽君が教えてくれた。
 なるほど一番人気の訳だと納得。
 事前に知っていればもっとじっくり見たものをと残念に思った。
 これと対になっている「肉」と呼ばれる肉形石が隣に展示されていたが、知らなかったのと小さいので見過ごしてしまった。
 とても予定の2時間では見きれるものでなく、今度来るときは1日かけて見たいと思うほどの展示物の多さだった。
 それにしてもこれだけ多くのしかも大変な価値のある美術品を良く持ち出せたものだ。
 それだけでドラマになるほど大変な苦労があったに違いない。
 お蔭で我々もこの至宝を見ることが出来るわけだが、台湾に運ぶために米軍の輸送艦を使ったそうで、米軍の協力もあったのだろう。
 現在の中国にとっては国の財産を持ち去られたわけだから当然返還要求もあるだろうし、その輸送作戦は公に出来ないことだろう。
 「白菜・肉」よ、今度見に行くまで故宮に残っていてくれと思った。

 故宮からいったん宿のホテルに戻り、一休みして皆で夜市に出かけた。

  夜市は台北の顔で、大きな夜市は3か所くらいあるそうで、台北市民の食の楽しみの場所になっている。

 大阪の道頓堀・食い倒れを連想するが、はるかに多くの屋台・食堂が店を開き、文字通り夜開く食の市で市民や観光客で賑わっている。
 浅田さんの案内でその中の一つの店に陣取り、明日吉田君と私の2人が所要で先に帰国する事もあり、すべて案内してくれた浅田さんの労をねぎらうことも含めて9人で台湾ビールと台湾料理の宴会となった。

 安くて美味しい夜市の看板通り、料理は美味しく特にビールのつまみの沢蟹のから揚げは美味で、ビールが大いに進んだ。


(3日目)
 台湾旅行の3日目は旅行のハイライトの忠烈祠での衛兵交代式と花輪の献花式。
 10時の衛兵の交代式に合わせる様に早めにホテルをチェックアウトし、台北駅のロッカーに荷物を預けて、タクシーに分乗して忠烈祠に向かう。

 忠烈祠に着くとすでに軍関係者の人が6人ほど待機していて誠に丁重な出迎えをしてくれた。

 入り口の衛兵の交代式を見学したが、交代の指揮官と交代要員、警護要員が行進してきて衛兵の交代を1時間ごとに行うもので、陸自の警衛の交代と似ているが、陸自の場合は半週交代で上下番対面して交代式を行い、終わるとすぐ交代するが、こちらは観光客など見物人に開放しているのでバッキンガム宮殿の衛兵交代のようにショー的な要素が強い。

 そのためか皆背が高く男前で専門職か、選ばれたる兵士だろう。
 実に動作がきりっとしていて気持ちが良い。

 交代式の見学が終わって、制服の陸軍将校の案内で武川君を先頭に隊列を組んで献花場に向かうが、現役当時を思いだして背筋がしゃんとする。
 陸軍側が準備してくれた花輪を武川君が代表して献花した。
 献花式が終わって先ほどの将校殿の案内で忠烈祠の内部に入り、説明をうける。
 この忠烈祠は義に殉じた軍人と民間人を祀るために1969年に設立され、故宮の太和殿を模して造られた立派な建物で、内部には殉職した多くの軍人の位牌が階級順に並べられ、民間人も数名の写真と功績が記されていた。
 

 数十分に渡り懇切な説明を受けたが、義のために殉じた方々を丁重に扱い、お守りしていることに感銘を受けた。

 日本には国家としてこのような日中常時お守りする立派な施設がないので、羨ましく思った。

 説明が終わって外に出た所で将校殿から記念として忠烈祠の写真に衛兵をレイアウトした立派な額が贈られた。

   将校殿と同行した軍関係者にお礼を述べて、タクシーで台北駅へ。

 忠烈祠を出発する時、我々を案内してくれた軍関係者の方々が門の外まで出てきてタクシーの誘導をし、全員で見送ってくれた。

 なんと礼儀正しい親切な方々だろう。実はこの施設は一般の人は衛兵交代式までで屋内の立入りは出来ないのだが、簡さんが関係部署と調整してくれて今回の忠烈祠見学が実現し、正にVIP待遇だった。

 台北駅に着いてロッカーから荷物を出し、皆で駅構内の食事所で昼食、その後駅に戻って我々2人は地下鉄で松山空港へ。

 赤羽君ら6名は新幹線で高雄へ出発した。
 田中・吉田組は待ち時間に空港でお土産の買い物。1600エヴァ航空のフライトで帰国し家路へ。

 高雄へ行った組の道中の様子は後日、寺澤君から投稿がある予定。

 2泊3日の短い旅行だったが、台湾の歴史に触れ、人情に触れ、中身の濃い忘れえぬ旅行だった。
 機会があればまた台湾を訪れたいと思う。
 空港の売店で買ったあんがパイナップル味のお菓子はあげた方に好評で、私もおまけで貰った4個を出発待ちの時に全部食べ、帰ってからお土産用の1箱を全部食べてしまった。
 お土産を貰い損ねた人が1人いたわけだ。
 次に行ったときは必ずお土産として買ってくるからお許しあれ。
 台湾旅行のお土産はこのお菓子がお勧めだ。