42期 徒然草 谷口 日出男
冷たい夏、熱い夏
 
 病院勤務での職務柄、年に何度か院長名代として葬儀に参列する。小さな地方都市の葬祭で、あれこれと他人の世界を垣間見ながら人生の襞(ひだ)を独りよがりに感じている。

 今日も長年、当病院に入院中だった患者さんが亡くなったので葬儀に参列した。院長代理で弔問するのは、入院中や当病院と繋がりのあった患者さんであり、また院長が役員をしている医師会に関係ある故人である。
 すべて葬祭場での執行だった。今ではとんと自宅葬なんてのは見受けられなくなった。今日も市内の斎場である。時間通りに斎場に到着し、受付を済ませ部屋に入る。
 
 少ない。祭壇の前に並んだ10列位の椅子には、後ろ2,3列に合わせて7~8名の弔問客が座っているだけである。その人たち、案内があっても決して前の席に座ろうとしない。
 俺の方は、斎場の若い女の子の案内に従って前の方に座らされる。周りは誰もいない。故人の写真を見る。背広姿の顔である。とんと見覚えがない。
 写真の顔は、60前半の顔である。お祭で見る稚児さんみたいにお化粧したように鼻筋が通っている。やや修整技術不足か、斎場に飾る写真も修整しすぎたりあまり若い時のじゃ違和感があるなぁ・・・。

 いつものようにいつもの手順で式が進んでいく。ただ役目で来ている俺にとっては何の感慨もない。この手の葬祭場で見るただ頭数だけの参加である。
 そんな無責任な参列者達の目に、故人とその家族親族が曝されている。そして彼らは、式の進行につれ勝手にその姻族の分析に取り掛かっている。

 祭壇に向かって左側は親族だろう。60過ぎの夫婦が二組にそのどちらかの夫婦の子と思われる30過ぎの娘さんがいる。右手は、喪主とその家族並びにより近い親族である。喪主となる奥さんは足が不自由で杖をついての焼香である。そのとなりは、息子か、30ちょっとすぎのおとなしそうな男である。その息子の連れ合いらしき者が周りに見えないのでその息子、まだひとりもんか・・・。故人の遺族はこの二人か、これまた侘しい風情である。
 人、それぞれにはそれぞれの家庭があり、世界があるんだろう。昔は、ごく当たり前に見られた絵に書いたような子沢山の平凡な家族風景はここでも欠落している。
 そのうしろには、似たような「かぎ鼻」をした男が二人座っている。更にその後ろは、「かぎ鼻」の家族だろう。中年の女性が二人座っている。焼香の段になってわかったがこの「かぎ鼻」をした男二人、故人の兄弟である。
 故人は、周文と書いて「かねふみ」と呼ぶ。兄弟は、「かねひさ」「かねひと」と呼ばれた。「周久」「周人」とでも書くんだろうか、兄弟3人にそれぞれ「かね」(周)の一文字がついている。かね(周)という字、名前としては、どんな意味があるんだろうか。故人がその3兄弟の何番目かはわからない。
 最後の家族の謝辞では、「かねひさ」「かねひと」のどちらかの人が述べたがそれこそ通り一遍の紋切り型の謝辞でその続柄は、なんも解らなかった。
 それにしてもこの二人は良く似ているなぁ・・・人の顔なんて真っ正面から見るより横顔や後姿などに同じDNAが顕れるのかも知れない。顔の長さ、その特徴だったちいさなかぎ鼻、やや細い目、良く見るとどれもが似ている。
 故人の顔も飾ってある写真と違ってホントはこんな「かぎ鼻」をしていたんだろう。故人はうちの病院に長く入院していたので今日のこの日も覚悟の内なのか、二人の表情からはそんなに哀しみは感じない。
 しかし3人兄弟のひとりが欠けた。そうだよな、心の中ではどんなにかその喪失感を味わっているかも知れない。どんな人生があり、どんな兄弟関係だっただろうか。
 
 不図、自分の兄弟を考える。ズラッーと5人の男に続いて最後に末っ子に、長女がいる。まだいずれもが健在である。その半分が70代にはいった。
 みんなが未来永劫に長生きできるものでもない。近いうちのいずれの日にか6人の誰かに訪れる兄弟・妹の欠落である。順番どおりなのか順不同になるかは神のみしかわからない。
 その時は、こうしてどこかの斎場で他人の目に曝されながら、残されたものたちは、ひとり欠けた兄弟のことを思い、人生の儚さ、淋しさを実感として味わっているのだろう。
 
 この時期になるとあちこちから喪中の挨拶状が飛び込んでくる。
 一昨年は、子供さんを亡くした喪中の挨拶状を2通も貰った。いずれも30過ぎの若者である。何と言う哀しみだろう。自分にも同じ頃の子供がいる身を思えば、その知人の顔を思い出すのも忍びないくらいである。
 70になろうとするこの年代になると賀状を取り交わしている者もそれぞれ老いて、身内を失う年代になってきた。文面は、実父母であったり義父母であったりとする。俺もまた4年前には亡き義父の挨拶状を送った。
 そして今年はまたそんな文面のはがきが届いた。その中に、ご尊母様とご令弟のダブルパンチの喪中の挨拶状を2通も貰った。旧知の人と同期生からである。偶然にも2通とも兄でなく弟である。年老いた親が先に身罷るのは人生の常として納得もできようが自分より年下の弟が先に逝くとは、何と言う無情か。

 文面にさりげなく書かれた人生の輪廻の儚さを読むとその哀しみが他人事ながらジワッツーと忍び寄ってくる。老いゆく母との別れもまた哀しいがそれこそ血肉分けたる兄弟の別離もまた一段とその哀しみを募らさせるのかもしれない。偶々この時期、そんな類の本を読んでいた。
 吉村昭著の「冷たい夏、熱い夏」という文庫本(新潮文庫)なり。

 弟が肺がんになりその発病から死にいたるまでの経過を著者特有の細かい事象の羅列で著した本である。普段であればこの著者のあまりの細かい描写に辟易となり、途中もそれこそ斜め読みにしてしまうが、今回はその本の主人公が7人ほどの男ばかりの兄弟で亡くなる弟は、すぐ下の末っ子というのも何か自分の境遇との共通点を見出したかも知れない。またその肺がんの症状は、4年程前義父が同じ肺がんに罹患し、闘いに敗れたと同じ様な描写過程だったので途中、投げずに最後まで読めた。同じ様な境遇を体験し、初めて感じるそんな弟思いの本だった。
 
 母への想いと違い、兄弟への想いは年を取るにしたがって自然と希薄なものとなってきた。小さい頃の兄達に対する絶対的な心服が薄れたからかも知れない。そして逆に、年下の弟妹の自分を追い越す成長がその無限の愛情を薄めたのかも知れない。それぞれが家庭を持ち、成長していけば自然と兄弟の縁は、細い糸になってきた。だがそれは切れることはなかった。
 そしていつかは訪れるその別れの兆しを周りから感じるようになってきて、幼い頃の兄への絶対的な信頼と弟妹への無限の愛情が再び甦ってきたような思いがしてくる。今までそれほどまでには意識しなかった兄弟への想いである。みんな、何想ってんだろう・・・。
 婿養子に行った二番目の兄を除けば他の兄弟は年に一度は実家で、顔を会わせてお茶の手伝いしたリ、ゴルフで一緒になるがそこでは強いて兄弟の絆を意識するものではない。兄弟の繋がりなんて表面的には切れているようで根っこは太いので繋がってんだろう。

 他所様の葬儀に参列し、また一年に一度くらいしかその消息を聞くことのない知人からの喪中のはがきに接し、今まで強いて感じたことのない想いが伏流水のように湧いてきた。
 我が家もいましばらくは、その時機の到来はご遠慮願いたい。

 
 その前に、1世紀を目の前にして健在なおふくろさんが居た?

         (不謹慎な、このバカ息子奴が!!)