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それが今では直通で中華街のすぐ傍まで来るのだから、本当に便利になったものだ。
そんなことを思いながら東急中華街駅を出て大通りを渡り、中華街へ、この通りも当時は東急が地下を通るための地下鉄工事で真に風情がなかった。
この工事もそれから数年後に終わり、今ではそんな大工事があったことを示すあとは何もない。
大通りを渡り、表門から中華街に入る。懐かしの中華街は当時と殆ど変わっていなかった。 |
2月19日は平日だったが、中華街の春節の終わりという事で大勢の人で賑わっていた。
ただ、春節の行事はすでに終わったようで、通りの上に龍の飾りがあるだけで華やかさはなかった。
多分、龍の練り歩きは2月5日の春節の始まりから数日だけだったのかも知れない。
天候が悪いのでとりあえず腹ごしらえとすぐ近くに店に入り一番安い定食を頼んだ。
せっかく中華街に来たのだから、値段は張ってももう少しまともな中華料理を頼めばよかった。
せめて別注文でフカヒレスープを頼めばよかったと後で思った。
ふかひれスープといえば、当時、穴場として中華バイキングをやっている店があるとの話を同僚に聞いて週に1回ほど通ったことがあった。値段も1000円か1500円だったと思う。
今やっているかどうか分からないが、この値段でいろいろな中華料理をたらふく食べられるので有難かった。
ほかの客もフカヒレスープがお目当てか、すぐに行列が出来るほどで、3杯目をお代わりに行くとスープを入れた容器は殆ど空だった。
そんなことがフカヒレスープの思いに繋がっているのかも知れない。
中華料理で有名なのは北京ダックだが、フカヒレスープの方がずっと美味しいと私は思っている。
店を出ると小雨がパラパラ、これは予定を早めないといけないと近くの土産屋で中国グッズを1つ買い、次の目的の関帝廟へ。
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ところが当時何十回も前を通ったのに、多分このあたりと行った所に廟がない。
周りを捜しても見つからないので、近くの店の人に「孔子廟」はどこですかと聞くと「孔子廟はありませんが関帝廟ならあります。」との返事だった。
なんと20年前からあそこに祭ってあるのは孔子だと勘違いしていたのだ。
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道順を聞いて、そこの道に入るとそこには昔と変わらぬ堂々とした関帝廟があった。
恥ずかしながら関帝廟のことは何も知らなかったので、帰ってITで調べるとその歴史は1871年に華僑の人たちがお金を出し合って建立したそうだ、それから数回の改修を経て現在の姿になっている。
その前も小さな祠を祀っていたようで、その歴史は明治の初期からで随分と長いことを知った。
遠く故郷を離れて異郷の地で肩を寄せ合って生きていたのだから、日々の生活の安泰と商売繁盛を願う心の拠り所とした気持ちは分かるような気がする。 |
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関帝廟はあの三国志で有名な豪傑、関羽を祀った廟で、この関羽という人は豪傑・英雄であっただけでなく、商才にも長け商売上手だったと言われていて、なぜ関帝廟は関羽を中心に祀ったのかという事がなんとなくわかった。
関帝廟の石段を登り、外側から中を覗いたが、よく見えないので中に入ろうとすると入り口の係の女性が赤い札を見せてください、無いと中には入れませんという。
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止めようかと思ったがせっかく来たのだから、と思い直して、「どこでくれるのですか」と聞くと、「下の売店でローソクを買うと札をくれます」というので、また階段を下りて売店で5本セットのローソクを買い、また階段を上って廟の外側にある大きなローソク立てに火をともして立てた。
このローソクは長さ50cmほどの長いもので、台湾にもあったが、中国独特のものと思う。
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入り口で赤い札を示して中に杯入り正面に祀られている大きな関羽像に拝礼した。
参拝者は中国系の女性が多く、中には地面の石畳に額を擦り付ける様にして礼拝する人もいて、一体何を願っているのだろうと思った。 |
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参拝終えて近くの公園のベンチで途中で買った大きな豚まんを2つ食べてしばし休憩、足のしびれを楽にした。
このベンチは円形の中国風の屋根の付いた立派なもので、その前には春節を祝う掲示板があり、わずかに春節を祝う名残の様だった。
足のしびれも収まったので、次の思い出の地、山下公園、合同庁舎、港の見えるが丘公園へと出発した。
20年来一度も来なかった中華街に来て良かった。 |
当時の思い出がよみかえってくる。来年は春節の始まりに来て獅子舞の練り歩く晴れやかな中華街を見たいと思う。
この素晴らしい環境の地に勤務しながら、ついぞ友達を案内することはなかった。 |
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ただ1度だけ小学校の同級生を招待したことがあった。
それは当時毎年クラス会を毎年やっていて、懇親会の後はみんなで彼女の家に転がりこんで始発まで飲みながら話をするという大迷惑をかけていたので、その償いに招待したのだが、コンビニ経営の忙しい時間をやりくりして横浜まで出てきてくれた。
石川町から元町、外人墓地、港の見える丘公園を歩いて最後は中華街で夕食を共にした。
その人も仕事の過労がたたって55歳の若さで天国に旅立った。
横浜のお礼にと送ってくれた大きなクレマチスの花の鉢は場所を変えて公園に毎年、美しい花を咲かせてくれている。
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