42期 徒然草 | ||
豊田佐吉記念館の見学 | 田中 征之 | |
昨年の12月14日、同期4人(畔柳、重光、吉田、田中)は畔柳君の運転する車で10時出発で一路、湖西市(浜松)にある豊田佐吉記念館に向かった。 ![]() 豊田佐吉と言っても殆ど何をした人かも知らず紡績機械をはじめて作った人で豊田織機という名前はきいたことはある程度だったが、なんとあのトヨタ自動車の始祖だと言うことを車中の話で知りました。 その偉大な佐吉さんの功績を記念する記念館の副館長を「神先 忠 さん(U-1区隊)」が勤めていて、一度見学にいらっしやいと我々を招いてくれたので、滅多にない機会と一泊旅行に出かけたのである。 畔柳君の見事な方向感覚で一度も迷うことなく14時近くに記念館に到着した。 トヨタの創始者の記念館だから近代的な建物かと思ったら、平屋の普通の家屋で記念館という仰々しいものでなく、どちらかというと質素な感じのたた住まいだった。
中を見学して解ったが、流石、大トヨタ、難いばかりの配慮の行き届いた格調の高い館だった。 ![]() 神先さんは既に準備して待っていてくれ、早速、お目当ての浜松の美味しい鰻重のご馳走に預かった。 奥様も手作りのデザートを振る舞ってくれるなどご夫婦での歓待に頭が下がる思いだった。 ![]() ![]() 何故この職についたのかと聞いたら、元々社員だったのが、ある時呼ばれて君にやっ貰いたいといわれたそうで、自衛官出身で日頃の真摯な勤務ぶりを見ていて上層部が白羽の矢を立てたのだろうと思った。 食事の後、暗くなるまで施設を案内して貰った。屋内には佐吉が若い頃から苦労に苦労を重ねて作った職機が展示されていて随分時代物なのに全部動くように整備されていて、神先さん自ら動かしてくれた。 感心するのはその機械はすべて佐吉の手作りだと言うこと、当時は現在のような工作機械があろう筈が無く、歯車ひとつヤスリで削ったのだろうから、その苦労たるや想像を絶するものがある。 ![]() これが自動織機の始まりで布の大量生産可能になり、日本に大きな富をもたらしたそうだ。 うっかり写真に撮るのを忘れて残念ながら今回の見学で一番大事なところの写真が無かった。 また、室内に目を向ければそれとなく置かれている掛け軸や調度品ふすまの絵などはどれも貴重なものでこんなところにも後世の人の佐吉への尊敬と感謝の念が表れていると感じた。 ![]() 母屋から外にでると庭園が広がり、佐吉の生家を再現した家屋や後年彼が愛した茶の湯のお客をもてなす建物が並び、裏山まで続く自然を生かした枯山水を思わせる庭は見事だった。 神先さんの案内で裏山に登ったが、色々な種類を集めた植生も素晴らしく植物に興味がある人なら思わず足を止めるだろう。 日頃の運動不足が響いて皆についていくのが精一杯、彼は説明をしながらスイスイと歩いていく。聞けば毎日一度は見回りを兼ねてこの登り下りを歩くという。健脚ぶりは流石だ。 ![]() 佐吉という人はよほど茶の湯にも造詣が深かったようで、茶室から眺めた庭の様子などすべて計算されていて、庭石一つにしても京都から運ばせたものがあるという。 母がお茶の先生をやっていたので、門前の小僧習わぬ手習いの私もまたゆっくり見たいと思うほどだった。これだけの施設を管理し、且つ毎日のように訪れる様々なお客に対応するのは本当に大変だろうと思うが、流石、大トヨタのお眼鏡にかない、任されている神先君は大したものだと思った。 そうこうしている内に冬の陽はつるべ落とし、あっという間に暗くなり、3時間にわたって懇切丁寧に説明をしてくれた神先君に多大なる謝意を表して今晩泊まる宿へ向かった。 夜はホテルに隣接した料理屋に神先さんに来て貰い、お礼を兼ねてささやかな宴を開いた。 その後ホテルのロビーに移ってからも、現役当時の話、懐かしい幹部候補生学校当時の事など話は尽きなかった。 ![]() 翌日はゆっくり陽が高くなってから出発、この日も素晴らしい好天で休憩した静岡では後ろに富士山がくっきり、久しぶりに美しく雄大な富士山を見て大満足だった。 途中、昼食を取って出発点の玉川学園駅に戻り解散したが、この旅行を計画し、往復の運転をしてくれた畔柳君に多大の謝意を表すると共に、同期が集まって同期を訪ねると言う思いで深い2日間だった。 この豊田佐吉記念館の持つ精神がトヨタに歴代ひきつがれ、お客を大事にする、もの作りを大事にするトヨタの精神になっている事を思うと感慨深い。 4月2日の総会には神先さんも来てくれると思うので、このような機会を与えてくれた神先さんに終了後、、一席設けようという話になった。 (H28.2.18) |
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管理人から 「神先 忠 さん」については、平静26年8月2日に山嵜君が、記事を投稿されています。 併せてご覧頂くとよいかと思います。 「頼もしい同期生の活躍」 |