42期 徒然草
谷口君の「飛べ!幹部候補生」読後感 田中 征之

  久しぶりに幹部候補生学校の今を知る記事で、懐かしく拝見した。久留米市の広報誌の表紙を幹部候補生が飾っていて若く凛々しい。流石にかっては軍都の市


  我々もこんな時があった。何しろ22,3歳の頃で人生の一番良い時だった。

  写真には女子もいたが何時ごろから幹部候補生学校に来るようになったのだろう。

 米映画「愛と青春の日々」のように男女が同じ訓練を受けることは出来ないだろうし、担当する学校側はかなり苦労したのでは。
 また、現在はB・Uが同じコースで就学しているそうで、これは良かったと思う。

 我々の期からBとUIに別れたため、Uとの交流は殆どなかった。
 自衛隊生活でも同じだった。

 ところが社会人となってある時期からUの畔柳さんと知り合うようになり、それが縁で我々防大出身にない良さが分かった。

 個人的な話で、U(一般大学出身)の人も防大の人と幹部候補生学校で同じ区隊か同じ候補生隊で知り合いになりたかったと言っている。
 私も全く同感だ、また、UI特にUは純粋なUとU'がありU'は殆ど少年工科学校から一般大学(殆ど夜学)に進み、幹部候補生試験を受けて採用された人であり、私も少年工科学校の教官を3年やったので、自衛隊員としての各個動作、班組程度の訓練は十分やって来ている。

 Uの人に言わせれば、素人とプロがよーいドンでスタートすると同じでそのハンデは大変大きかったと言っていた。
 それでも幹部候補生学校の1年でその差を縮め、良き小隊長になるべく巣立って行ったのは立派だと思う。
 ここまで書いて「陸上自衛隊幹部候補生学校地獄」を読むことにしてホームパージを開いたが、なるほど候補性の心情が良く描かれていた。
 BUIの関係もその通りで、Uの人と知り合った当時、「君たちはいいよな、防大で軍事・訓練もしっかりと教育を受けているから、俺たちはまるっきり白紙の状態から始まったのだから」といわれたが少々恥ずかしかった。

 「いやいやそれは50歩100歩、防大は軍事教育・訓練はそれだけ時間を割いていないし、基礎的な事にとどめていて本業は一般大学に負けない学業なんだ。

 槙校長がおっしゃられた軍人たる前に良き社会人たれという言葉を心の支えとしてやってきた。
 「幹部となる教育は幹部候補生学校から」と言うと、そうなのかと納得顔、「だから防大卒は意外と頭が柔らかいし、人間的にも出来た人が多い」といってくれた。
 私は防大の教育はこれでいいと思っている。
 それ以来、U出身の人との交遊は更に深まった気がする。

 話が大分回り道したが、現在の幹部候補生学校の教育はわれわれの頃よりレベルが上がっているように感じる。
 基本的には「娑婆っ気を早く落として、自衛官にすること、幹部としての技量・気力・体力を身に着けさせることに主眼を置いている事には変わりがないと思うが、当時を振り返ると、体力に自信はあったものの、気力に欠け、自衛官になる自信も無かった自分は「これで娑婆ともお別れか」と不安な気持ちで教官室に行き、到着の挨拶(申告)をしたら、途端にやり直し、お前、ちゃんとやるんだろうな、と気合を入れられ、思わず「はい」と直立不動で答えてしまった。

 それからは「幹部候補生学校地獄」にかかれている通り、防大4年の時のプライドもどこえやら、赤子の手をねじるような、一方的な叱咤を受ける毎日、一日の唯一の楽しみの夕食後の入浴も要領の悪い私はのんびり入っていい気持ちで出ると、いつも付教官(青山さん)につかまり、翌日の事故報告、夜の自習時間も日中の疲れで居眠りをしていると突然頭をごつん、夜も回ってくるのかよこの青大将。

 区隊長と付教官は役割分担しているようで、区隊長はなだめ役、付教官は憎まれ役のようだ。
 私は駆け足は割と良かったので6月の高良山登山競争は一生懸命やった。
 ところが自分も区隊の皆も自己新を出した者が殆どいず、区隊長の熱心な指導にも答えられずに最下位に終わり、区隊長には本当に申し訳なく思った。

 これが終わった後は気の抜けたビールのように目的を失って、早くここの生活が終われば良いと思うようになった。

 幹部候補生学校はいろいろ思い出はあるが、素晴らしいと思ったのは訓練。
 我が2区隊の区隊長は福山さんで、細身の人だが目に吸い込まれるような独特の目で、見つめられると言い訳は出来なくなる。

 訓練は区隊長自ら、付陸曹を使って周到な計画のもとに行っていたようだが、高良台の午後の訓練の時、付陸曹が竹の竿の束をもってきた。
 「お前たち竹の竿を見て何を思う」と言ったので「それは赤い布を付けて対抗部隊の標識にするんでしょう」と誰かが答えた。

 すると「お前たち毎日暑い中の訓練で頭がおかしくなったか。
 普通の人なら竹の竿を見たら直ぐ釣り竿を思う。

 これから釣りに行く」と言ったので皆?然。
 福山区隊長は区隊全員の分の細身の竹竿と釣り糸、釣り針、餌を準備していた、こんな乾いた大地の高良台に川があるのか半信半疑だったが、歩くことしばし、小川があり、2時間ほど釣りに興じた。
 釣果のほどは定かではないが、釣った小魚を焼いて分け合って食べた記憶がある。

 多分毎日、暑い中高良台の赤土にまみれて訓練疲れもあるだろうからと計画した事と思うが、いつまでも忘れられない半日だった。
 何よりも意表をついた訓練が出来るという事が素晴らしいと思った。
 十分な準備と計画性、効果を考えられる人でなければ、できないことで、私も小隊長だった時に1度でいいから意表をついた訓練を計画してやりたかったが、ついに実現できなかった。
 このようのように幹部候補生学校は私にとって良くも悪くも強烈な印象を与えたところだった。ここで受けた教育のお陰で、自衛官としてやっていく心構えが出来、定年まで職務を全うできた事を感謝しなければいけない。

 それなのに卒業して校門を出た時に「2度と来るめい鬼河原」と悪口を吐いたのは、今思えば恩を仇で返す自分が恥ずかしい限りだ。

 今回、谷口さんの記事を読んで若き日の思い出がよみがえり、しばし思い出にふけれたことに感謝したい。

                                                            (田中記)