42期 徒然草
十五の春 谷口 日出男

  広島の孫娘が志望校の公立高校に合格した。 やったね!おめでとう!

 娘から、合格発表の瞬間を撮った孫娘の表情の動画が送ってきた。
 本人はもとより動画を見せられているものも涙しての感激である。
 今はこうして遠く離れていてもこんな画像それも動画が送られてくる。便利というか年寄りの頭ではオォッの感じである。

 もし落ちてたらこんな動画を撮っといて娘はどうしたんだろう。
 一応滑り止めで私立の女学校は確保していたが、本人の希望はあくまで男女共学で子供のころからやっている延長上のダンス部があり、憧れのセーラ服が着れるこの学校を熱望していた。
 ここ数日間、ジジババはもし落ちたらどうやって慰めようかとそればかり気を揉んでいたが、こうして結果オーライの動画を見せられて先ずは一安心なり。

  「高校受験」、 これからの長い人生で幾多と体験する試練の中で、初めてぶっつかる大きな関門である。

 出来ることなら誰しもこの最初の関門だけはなんとかして無事に通り抜けて、十五の春を迎えてもらいたいものである。
 試験の終わった日に孫娘に電話する。
 “英語は難しかったけど理科は何とか、ここ偏差値高いけん、ちょっと不安、あとはもう祈るだけなんよ、おじいちゃんたちも祈っといて”と、広島弁で元気な声が返ってきた。

 受験前は妻と水天宮と高良大社へ、そして発表の朝はただいま宮総代を仰せつかっている町内の八幡神社へ祈願。お賽銭もはずんでそのご利益(りやく)があったか祈願が成就した。    

○○ちゃん、楽しい高校生活を送ってください。



 俺の時はあの時はどうだったんだろう?
 もう60年以上の昔のことである。そのころ偏差値なんて言葉、聞いたこともないし、ただ3年生になると進学組と就職組に別れ、進学組のみ課外授業があった。
 50数名のクラスが5クラスもあり、そのうち半分近くがその時代、金の卵ともてはやされた就職組だった。
 当時の宮崎の郡部の中学、まだまだ高校進学率は低かった。そんななかの高校受験だった。

 そして自分の子供たちの時は?またほかの孫の時は…そんなことを思いながら段ボール箱に放り込んである中学時代の日記や現役のころメモってた自衛隊手帳等を見てたら、あった!あった!
  みんなそれぞれの体験をしたんだろうなぁ、昔を思い出しながらまとめてみた。

 同期の皆さんは、どんな思いで自分のそして子供さんたちの十五の春を迎えられたですか…
  こんなことを皆さんに披露するのもまったくジジ馬鹿の極みであり、身内の恥を晒すようですがなんかの想い出にと…ご笑読の程を。

   先ずは長男〇吾のその時は(左欄:当時の手帳・日記 名前以外は原文のまま)
 3/3  〇吾 公立高校入試、受験校の高校まで友達を含めて送る。あいつなりに頑張っている。

日中はやることなくボケッー

只今会計監査受検中、部隊長特にやることなし。読書「蒼氓」
 春三月まだ道すがらは残雪が残っていただろう。
 小6に上富良野の田舎から大都市札幌に転校し、中学校は〇〇中学で丸々3年間は転校することもなく中学生活を送った。 滑り止めは当時野球で有名な「北海高校」だったか。

 

当時、面接もあったんだ。

 

仕事や息子のことより自分の遊びのテニスのことばかり書いている。
3/4   午後会計監査講評、指摘事項なし。夕方テニス。 〇吾本日も送り。面接で終了。
 結果は?
 3/16  〇吾××高校合格15の春なり。おめでとう‼
11時頃本人から上ずった声で職場に電話あり。良く頑張った。
 定期異動 幹部×2陸曹×1転出、幹部×1転入。夕方テニス、このところ週末真駒内での練習が楽しみなり。
 息子から直接合格の報せを聞いたんだ。もう覚えていないなぁ。努力して折角入った公立高校なのに4ヶ月後は九州へと転校になった。経歴管理には今夏には「WA-1」と記した。長女の方は、札幌を去るのを嫌がっていたけど息子の方はそのころどうだったんだろう。オヤジの職業上致し方ないこととはいえ子供達には迷惑を掛け、そして妻にもあれこれと気苦労をさせたなぁ…

 

 三人の子供たちのそれぞれのこの時期を振り返るとやるせなさと反面新たな喜びが湧いてきたのが思い出される。
 息子が××高校を転校する際、挨拶に行くと、担任から“子供さんの将来をどう考えているんですか?”と問われた言葉がずっと残った。 “そう云われても…”
 しかし子供三人ともそれぞれの壁を自分の力でぶち破り青春時代へと旅だった。 感謝である。
  長崎の親から早速お祝いが届いた。早手回しのお祝いである。感謝!
 3/17  読書、ブラジル開拓の話である。もう27年昔の俺の夢か。あのままだったらブラジルだったか…
 娘二人風邪気味とか…
 
長崎より〇吾の合格祝いにご祝儀が送ってくる。しかし折角合格したのに今年の夏は転校させる。やるせなさを感じる。
  続いて2番目長女〇子のその時は   
 3/14  昼間何やかや、夜「卒業の夕べ」約600名で飲み会壮観なり。夕べは夫婦での幹部の送別会出席そして今夜もまた夫婦で、連日で少し飲み過ぎたか…

 〇子きのうと今日入試、結果は?
  〇子がどれだけの偏差値で××高校のそれがどれだったかは、俺は掌握もしてなかっただろうなぁ、でも〇子のことだから少しも心配はしてなかった。(妻に言わせると心配より無関心の方だったか)
 この頃は幹候校勤務で、部内候補生の卒業、職員の異動等で連日宴会続きだった。試験当日2日間、親は揃って飲み会である。
 〇子にはホント彼女が中3の夏と多感な時期引っ越し・転校と迷惑かけたなぁ…
3/20   一日中卒業式の予行。午後卒業する候補生に対し最後の講話を実施、あれこれ話したが自分だけ舞い上がっていたか…夜は陸幕からの客との付き合い、連日で胃が痛む。終わってマージャン。
  〇子××高校合格、難しいと言われていたが良く頑張った。おめでとう!
 左のメモのほか、当時次のようなコメントがノートに記されていた。
  「〇子、見事に××高校合格、担任の先生からダメと言われたが本人の努力で無事合格した。一応滑り止めを私立の○女学院にとしていたが本人の希望通り公立高校が親としても有難い?
 一日中電話を待つ心境は昨年の息子の時と同じ。ただし今日は何回かけても電話がつながらなかったようで帰宅して聞いた。先ずは「〇子さんおめでとう‼まだまだ勉強することが多い時期なのでこれから大いに伸びて欲しい。彼女にも15の春が来たことを喜びたい。」
    3番目次女〇美のその時は
3/18   〇美高校合格、2年生のころ不登校がどう響くかと思ったが本人の努力大したものなり。
  おめでとう!
 この日は簡単に〇美の合格のことが短くメモとして書いてあるだけである。どこの高校とも書いてなかった。
 前の日、空自でF-15戦闘機に体験搭乗した興奮でそれどころじゃなかったか、この年、阪神淡路大震災の年でもある。
 受験についてもなんもメモがなかった。対人関係で悩み何ケ月かの不登校を経験したりで苦労したが乗り越えることが出来た。入試の時のメモがなかったので入学式の当日のメモを次に載せる。
4/7   午前中司令部の新着任幹部の紹介。防大同期が居た。前にソ連のアタッシュやった男である。CSとして着任、27年振りの再会なり。

 

  ○美入学式。晴れて高校生なり。青春充実されたし。
 この当時は、陸上連絡官で空自春日基地勤務、結構なご身分?でここでテニスやゴルフを遊ばせて貰った。 25年経った今もその付き合いが続く。感謝である。

 

 〇美の入学式、妻が参加した。高校生活、青春充実したかな? 卒業式は長女の〇子の時と同じく俺も今回参加した。

 

 冒頭の主人公は、この次女の娘


 日々の行動記録は下の自衛隊手帳に記されていた。毎日の出来事を3~4行ほどでその日の行動等が記されている。
 曜日の下に赤字で数字が記されていた。マージャンの点数である。マイナスが多かった。まったく妻に迷惑を掛けたなぁ…反省!!
   

  そしてオヤジのその時は
 3/15

戦とう九時間もいよいよ音楽で終った。いままでの試験をふりかえってみるとおちている可能性の方が強い

父母などには自信ありげにいったんだがなぁー まったくゆううつな気持ちだ

 

夜、ぼくのためにすし御飯だ
・この頃の日記には試験二日目の最終日のことしか記録してなかった。そうだろうな、試験前はそんなとこじゃなかったんだろう。いずれにしろ試験が終わった安堵感がある。出来はどうだったんだろう。その時の心境は、日記はこう記されているが全然覚えていない。

不安感の方が大きかったか…

 

・戦とう九時間とあるが受験科目が九科目だったのか?(国語、数学、社会、理科、英語、職業家庭、音楽、図工にあと一つは何だっけ?)

 

・図工は「手のこぶし」のデッサンがあり、音楽は4フレーズくらいの楽譜を見て曲名と作曲者名を求める問題が出たような気がする。まったく苦手な科目でこの曲名当て、音痴には絶望感に苛まれたなぁ…

 

・夜は、母がすしを作ってくれた。その恩情に今は感謝である。こんなに子供たちのことを思ってくれていたんだ。(2年前の○○兄の受験時「まずし」と記してあった)このおふくろの作る「すし」天下一品?のごちそうである。成長するにつれ、何か祝い事等があった時、結婚して妻を実家に連れて帰った時等、いつでも竹のざるにはいったこのバラずしがおふくろからのごちそうだった。それに冷や汁
 3/20   いよいよ今日で中学生活おさらばだ。しかし高校で落ちればまた通わねばならない。卒業式の歌の時、いままで悪かったことがありありとうかんできた。
 学校にも先生にもすまないと思った。これが初めてで最后であろう。心のこりであったのは、もう少しクラスをりっぱにしたかったことだ。しかし今からではもうおそい。

 

○○兄高校修学旅行へ出発

・ 節目に当たって、それなりに反省の弁を述べているが本心だろう
 ほんと迷惑をかけたなぁ、あちこちに…
後年、同窓会に参加しても、懐かしさよりあのころを恥じ入る気持ちの方が強い。
・ 卒業式は、今でもそうだが高校入試の発表前にある。 発表後じゃ余計卒業式が荒れるからか…
 落ちていたらまた中学校に通っていたんだろう。俺達の一つ前から救済処置として聴講生なるものが生まれ、俺たちの時も可愛く控えめな女生徒(?)が通っていた。
 3/24  待ちにまってはいなかったが今日は、高校入試の発表だ。気分的には試験よりもはるかに楽でなんともいえない。

 

 ラジオの発表を聞いていたが母の心配する姿は、目に痛かった。本当にしみじみ母の慈愛を感じさせられた。

 

 昼から宮崎へ発表バスで見に行った。途中、岩井先生と同乗す。無事パスしていた。岩井満ちゃんより、記念さつ影
 少してれ気味
  帰るときロマン座で映画 全然面白くなかった。帰ったら母からやけられた
 ・相変わらずのヒネた何を言いたいかわからん表現だけど合格する自信はあったのかな?

・帰りに映画を見て、家に着いたのが夜遅くになり、電話も携帯もない時代、気を揉んでいたおふくろからこっぴどく怒られた。母への慈愛なんて偉そうに言ってることと映画見の行動が全然一致していない。まったく世話の焼ける息子だったんだ。

 自分が子供を持って初めて感じるあの時の自分の行動への悔悟である。
 今思い出してもその時のおのれの行動には恥じ入っている。その割には、その後もこれに似た同じような行動を取っていたなぁ。

 

岩井先生(名前は満行:みんな満ちゃんと呼んでた)この先生なくして俺の成長?はない。中2の時の担任であり、テニス部の顧問だった。俺のこのヒネタ性格をよく指導して貰っていた。
  “谷口!ダメじゃないか、お前ならできるよ”といつも目をかけて貰ってた。中学3年間を想い出したとき、この満ちゃん先生が担任の2年の時が心身とも一番落ち着いていたような気がする。良く勉強をし?テニスにも頑張った。ここで満ちゃんに会い、その時の写真がこうして残っているのもなんかの縁だろう。

 感謝!満ちゃん先生!

  ともかくもこれで中学時代も終わった。

 

 さらば中学生よ! 




 最後にのその時は・・・
       多くを語らず    ○○年 熊本市の公立高校