42期 徒然草
つれあい 谷口 日出男

 "口内炎が沁みるなぁ・・・、薬飲んでるせいかな?"夕食後のひと時、新聞を見ながらふと呟く。
 洗い物をしていた妻が目ざとく聞きつけ"何か薬飲んでるの?" とカウンター越しに聞く。しまった!一昨日、受診して痛み止めの薬を飲んでるのを妻には言ってなかった。

 リウマチなのかそれとも身体のどっかに異常をきたしているのか一ヶ月前から右手中指に違和感を覚え、一週間程前からは今度は痛みと痺れを感じてきた。勤め先の病院でもお年寄りがリウマチで苦しんでいるのを目のあたりにした。指が硬直し、それがねじれているために箸も握れない。食事も介助である。入浴の時に、職員がその手を優しく広げて丁寧に石鹸をつけて洗ってやると感激して涙を流されたことがあった。

 インターネットを開く。リウマチ、まったく悲観的な説明しか出てこない。原因不明、治療薬なし。症状は、確実に進んでいく。その過程には痛みを伴なう。そしてついにはその部分は麻痺してしまう。原因治療なし。対症療法により症状の進行を遅らせるしかない。
 認知症と全く同じである。あ~ぁ、こんなにまで悲観的とは思いもせなんだ。いままでこの病気の名前を聞いたことはあるがこんな苛酷な症状があったのか、昔この病気、お年寄りの専門特許で自分には別な世界かと思っていたが…


 妻に云えばまたあれこれ心配されるので近くの診療所に黙って行く。老医師から診断を受ける。患部の右手にそれと首の骨のレントゲン写真を撮って貰う。診断の結果"首の骨の下から二番目の隙間がちょっと狭いようですな、それに角っこが擦れて尖ってますな、もしかしてこれが神経を圧迫しているのかも知れません。
 こうなっているのも自分の持って生まれた運命と思わなきゃいかんでしょうなぁ" なんかどうでもいいような見事な診断である。

 リウマチの件を聞くもまぁ、それはないですな、もっとあちこちの関節の部位に症状が出てくれば検査の要がありますが今の段階では必要ないでしょう。心配していたリウマチが遠のいたのかそれともその恐怖がヒタヒタと押し寄せているかはわからず。
 取り敢えず痛み止めの飲み薬に塗り薬を貰う。その痛み止めのくすりである。それが口内炎を引き起こしたのか、それとも食い過ぎが原因か。

 しかし、なににもまして妻に薬を飲んでることを悟られたのに驚き?を感じる。逆に反対に妻が何か薬を飲んでる場合、俺はこれほどまで反応するか、う~ん、どうしたのかな?ぐらいでその先には進まないか。鈍な夫である。仕事をしてた何年か前の頃に、妻からこれほどまで気を遣って貰っていることに何かしら感動を覚えた小さな出来事だった。

閑話休題。

 仕事をまったく辞めて一年、日がな一日フリーとなった。今までの50年近くの繰り返しと違ってあまりの日々のルーチンの無さに退屈して風呂洗いをすることを自分で決めた。昔、手抜きで風呂を洗ったら浴槽の壁に汚れがへばりついていると指摘されたことがあるので今では洗い残しがないように丹念に洗っている。最後に表示盤にかからないように、シャワーで勢いよくバァッー水を掛け洗剤を洗い流す。この頃は寒くなってきたので足も冷たい。
 俺がいつまでも寝ていると洗濯のあとにサッサと洗われたことはあるがそれは俺の生き甲斐?なんだと文句を言ったらこの頃は浴室の扉も開けずにちゃんと俺に残してある。それまでも妻がいないときには、一年に数回は洗ったことはあるがこうして毎日風呂を洗い始めてみるとつくづく女房の偉大さ?を感じる。
 あんまりうだつの上がらぬ旦那に嫁いでからは専業主婦として、こんな作業をそれこそ結婚以来50年近く、ずっとやってたんだ。
 凄いなぁ、今まで嫌になったことはないんだろうか?


  "おつかれさぁーん"と云われて遅い朝の食卓に着く。そこにはちゃんとおいしそうな朝ご飯が数品のおかずと一緒に載っている。仕事をしていた晩年の時期は、朝飯は自分で味噌汁をあっため、おかずも冷蔵庫から出すのが面倒くさいのでテーブルに置いてあるふりかけぐらいで済ませ、洗面等を終わってまだ寝ている妻を起こさないようにそっと玄関口を閉めて出て行ったものだがそれが仕事を辞めたらほとんど毎日顔を突き合わせて朝飯を食べている。
 風呂洗いの一仕事?を終えての朝飯はうまい。朝のモーニングショーを見ながら箸を運ぶ。外は今日もいい天気になりそうだ。テレビを見ながらあれこれと話が出る。どれもが他愛無い話なれどこれが夫婦の会話なんだろう。その間、口元に何かおかずが乗っかっているとか口をクチャクチャしてものを食べないでと指摘される。歳をとってくるともう口元の感覚もなくなり、指摘受けるまでそれにも気がつかない。そのうち何を食べているかもわからんのじゃないかとふと不安感がよぎる。
 
 食事後洗面等を済ませた後は、テニスなんぞがないときは2階の部屋に上がる。新聞はまだ読まない。女房が先に読むのである。今までの彼女の一日の生活リズムを乱したくないからである。2階はまだ息子の荷物が置いたままの部屋である。結婚してほかに居を構えているんで、自分の荷物は持って行ってと女房が言うも息子は聞かない。
 そんな部屋に間借りして俺は自分の城を形作っている。本を読んだりネットを見たり、こうしてどうでもいいような駄文をこさえたりと時を過ごしていく。やがて時が経ち、階下から声がする。"お昼、なんにします?"と。えっ、さっき朝飯食ったばかりにと思うも俺が要らないと云えば女房も食べずにいると思い、仕方なしに?"なんでもいいよ!あるもんでいいから"と返答する。女房も今までと違って今度は旦那の朝飯にそしてすぐに昼飯まで気を遣わせなきゃならんのである。大変だなぁ。
 
 更に、これに大物の晩飯もある。スーパーの買い物にアッシー君でお供する。食料品売り場で、"今夜、何が食べたい?"と聞かれる。答えようがない。今までの長い人生、食べるものは自分で選ぶことなく自動的に与えられてきたからである。
 小さい頃は貧しさが故にそんな選択肢はなかったし、現役の頃の有料の部隊食は、若者向けの栄養豊富な献立だったし、また野営時の缶詰メシや飯盒メシはただ空腹を満たすものだけであった。結婚後の夕食も帰ればもうテーブルに乗っかっていた。今更肉が食べたい、魚が食べたいなんての欲求は起こらないんである。多分死ぬまであれが食べたいこれが食べたいとは、俺は言わないだろう。いやっ、言わない。
 また女房が同じことを聞くんで今度は"ライスカレー"と答えた。でもこれは月に一回くらいしか作ってくれない。一品でも安い野菜をと手に取って見比べたり、食材を見ながらなんにしようかなと思いあぐねている女房を見ると、ホント、乏しい年金生活の身で、こうして毎日毎日献立を考えなければならないなんて大変だなぁとつくづく思う。
 だから仕事を辞めた今でも、おにぎりなんぞ作って貰って鉄砲玉のようにテニスやサッカーなどで外で遊んでいる。「亭主元気で留守がいい」を実践しているのである。

 最近、夫婦間の愛情を考えさせられる事象が身近に立て続けに起きた。ひとつは、サッカーの仲間が奥さんを亡くしたのである。サッカー仲間の彼は、俺より誕生日が一日遅れなので、仲間内での練習試合では年齢順に右・中・左と3コの列に分けてチーム構成するもんだからバックスの彼はいつも俺のトイメンの敵だった。抜いたり、ブロックされたりと良きライバルである。夫婦そろっての元教師で二人とも小・中学校の校長先生の経歴の持ち主である。子供は居ない。家は、何とか御殿と呼ばれるくらいの豪邸の持ち主かと聞いていた。試合で遠くに遠征するときはいつも奥さんを帯同していた。潤沢な?年金暮らしの仲のいいオシドリ夫婦である。そんな奥さんが突然病魔に侵され発病後2カ月ほどでアッという間に亡くなられた。
 そしてそれから数週間後、今度はテニス仲間が旦那さんを亡くされた。こちらの旦那さんはずっと療養中だったみたいで、彼女は午前中でのテニスの練習が終わると誰よりも早く急いで家に帰って行った。自宅で旦那さんが奥さんの帰りを待っているからである。うちの旦那、あれこれと食べものがうるさいのよと、ほかのテニス仲間に口ほどでもなく楽しげに話をしていた。こちらは子供さんは居るがそれぞれ家庭を持ち、別に住んでいるとか、お通夜にはその子供さん夫婦思われる人たちが遺族席に座っていた。

 サッカーの彼は、その後一度練習場に顔を見せたが着替えることもなくみんなのゲームを見て帰って行った。その後、半年になるもまだ顔を出していない。あのグランド横での寂しげに立っていた大柄の男の姿が目に残っている。テニスの彼女は、2,3か月後にはもう何事もなかったかのように、時には雄たけびを上げながらプレーを楽しんでいる。
 旦那さんが長い療養だったので覚悟のお別れだったせいなんだろうか、練習後は同じ仲間たちと昼飯食いに連れだって行っている。俺も誘われたが気が重いんでまだ同行したことはない。なんか男と女の違いを見たような気もするがテニスの彼女だって顔には出さないが最後まで残ってプレーしているその後姿を見ると心なしか寂しさを感じる。
 二人とも子供と同居してる訳でもないので広い家にポツンとひとりぼっちで取り残された。心にぽっかりと大きな穴があいてしまった。埋めようがない。ないだろうな...
そんなものがあればそれほどまで大きな穴が開くわけがない。本当に埋めようがない。
 サッカー遠征先のホテルでの会食、奥さんも同席した。爺さん集団の中に咲くカキツバタだった。まして小学校の校長先生の経歴なれば爺さんの取り扱いは、慣れたもんで当意即妙、控えめな態度で大きな母心を持ってみんなをあたたかく包んでくれた。そんな姿を穏やかな顔で彼は見ていた。誰もが羨む夫婦だったのである。
 亡くなったその後も、遠征先でそんな光景がまだそこに転がっているような感じを受ける。夫婦の普通の姿である。それがもう見ることができない。そしてまだ自分には連れ合いがいることを実感するだけである。


 年に二三度、孫の面倒見に妻が広島まで行く。「只今」と声掛けても誰もいない玄関を開けて、廊下を通って部屋に入ると孫たちの写真のパネルが迎えてくれる。しかし、カウンター越しの台所には妻はいない。
 しかしこの侘しさも帰ってくる妻がいればたちどころに融けて流れる。だが俺と違って二人には、迎えてくれる妻もいないし、帰って来てくれる夫もいない。
 只今と声掛けてもガランとした部屋、誰も居ない。そしてまた一方では、気配で玄関口を覗いてもそこに只今と声を掛けて帰る人もいない。それぞれが誰も待ってくれてはいない部屋。待っていても誰も帰っては来ない玄関口。孫の声が聞こえるでもなくただ一人自分の老いた姿がそこにあるだけだ。
 ひとしきり降る雨が余計に孤独感を苛む。 侘しい~なぁ...

 そして今までの仕事を辞めて始めたのに、風呂洗いのほかにもう一つ女房のバドミントン送り迎えがある。久留米に来て約30年近く、練習場の体育館までは今まではバスや友達の車に便乗していたが旦那がフリーになったいま、女房もお抱え運転手を雇えるようになった。
 週に2度、体育館へと通う。車中、街の景色や通り過ぎる人たちを見ながらあれこれと話が弾む。あれっ、いままでこんなに二人して話したことがあったっけ?とふと思う。外に二人して出ることで得られる話のネタであり話題の多さである。
 二三日前は、雨の日の午後映画を見に行った。二人で2,000円。その安さはもとよりその手軽な二人の愛情の交歓に何事にも替えがたい宝物を感じる。
 こうして夫への何気ない仕種に敏感に反応してくれる妻がいることにふと幸せを感じる。これは子供や孫では代わりにはならない。

 また、ある夜中、ふと目が覚める。何時頃だろうか?弱い月の光が天窓から差し込み部屋を朧にしている。しばらくまどろむ。となりの小さなかたまりから妻の寝息が聞こえる。鼻が詰まってるのか寝息も時々それによりリズム感が狂う。そうだよなぁ…夫婦ってこんなもんだろうな、そこにいてくれるだけで満ち足りるんだから…
 なにか怖い夢でも見たんだろうかうなされているみたいだ。いつか夢の中でお父さん助けて!と叫んでも知らん顔をして通り過ぎていくんだからと朝餉の時に言われたことがあるが、女房の夢の中まで入っていけるわけはない。手を伸ばそうと思ったがやめた。二人の間の距離が長くまたそれ以上のものもないので。そのうち静かになった。

 しかし、サッカーとテニス仲間の二人にはこんな世界がなくなってしまった。つれあいを亡くし一人住まいの老人って、どのくらいいるんだろうか?今の遊び仲間にも合わせて7人もいる。もうこれは身近な現象である。
 そしてそれは、俺たち二人にもどちらかに、いつの日にか必ず訪れる試練?でもある。その試練が一日でも遅くならんことを神のご加護に頼るしかない。 

 今日も午前中のテニスが終わって家に着く。 
 "ただいま!" "お帰りなさぁーい!"
 やっていた漢クロを止めてすぐに昼食の準備をしてくれる。妻もまだ昼飯は食べてなかったのである。結婚して以来、家に帰ればそこにはいつも妻がいた。そして話かければ応えてくれる妻がそこにいた。
 何気ない毎日の繰り返しの中でいとおしく感じる妻の思い遣りである。


 糟糠の妻に感謝!!

 「はばかりを汚すつれあい 居るだけでよしとす  便器磨きながらに」 (読み人知らず)

  これは俺じゃなくて誰かの作なんだけど時には妻も、こんな風に思ってくれているだろうか・・・
 
 
 (P.S.)
 日ごろのこんな思いを書いていたら、昔にもそんなことを書いたことがあったなぁと思い出した。約二十年前の話である。併せてご笑読のほどを。


 H7.3.20
 深謝 専業主婦様


  夕方帰宅すると玄関口で、隣り組の有力者(?)二人と、老婦人との三人が女房と話している。隣り組といっても道端で会って挨拶する程度だし、年一回夫婦して参加する懇親会で、当たり障りのない話をしながら酒を飲む程度なり。年寄りの多い土地なので"あぁ、また誰かが亡くなったので葬式参列の打ち合わせかな"と一瞬思う。
 妻が複雑な表情で助け舟を得たかのように"お帰りなさい"という。三人の用件は、隣り組の自治委員の役を次年度にやって貰えないかの依頼なり。週末、実施される年一回の懇親会で次年度の自治委員を交代するのだが今までの隣り組の内約で、次年度はその件(くだん)の老婦人の家と決まっていたそうである。それがあと2~3日後の懇親会開催を前にして、うちは息子夫婦が二人とも働きに出ているのでその役は、とてもできませんとその有力者のところに駆け込んだみたいである。

 農家と勤め人が混在する世帯数二十六軒で構成されている隣り組の自治委員は、任期は一年であり、業務としては、月一回の市政だより等の回覧板等の配布、お宮さんの清掃の取り仕切りから、町内体育祭の選手選考・運営進行や、それに今週末やる年一回の懇親会の設営等、結構何かとあるみたいである。ここに居を構えて五年の新参者の我が家がその自治委員の職をやるのは、内約の順番から言えば、まだ五~六年先の予定だそうだ。それがその老婦人のお上(?)への嘆願により、隣り組組織が紛糾した。有力者たちがあれこれ次の順番の人達に当たったが、ある人には、そんな我が儘許すなと言われたり、やんわりと断られたりして到頭、我が家に辿り着いたみたいである。
 次の順番の人達が断った多くは、いずれもが妻がパートに出ているからだそうだ。まぁ、専業主婦のうちの女房が一番ヒマと見られたんだろう。いろいろ三人の話を聴いているうちに、自治委員としての仕事もそんなに大した仕事じゃないかと思うが、それを口に出すと、"どうせやるのは私なんだから"と一刀のもとに切り捨てられそうなので暫時、沈黙。お互いチラホラ見える胸の思いとは逆に、社交辞令の笑みをたたえながら話し続けるも一向に結論が出ない。

 シビレを切らし、決心。矢は左。ここはこの土地に来た新参者が溶け込む絶好の機会だし、それこそ頼まれたからには快く引き受け、点数を上げておく(?)かと打算的な思いで、"そのような事情なら喜んで引き受けましょう"と答える。
 三人の顔に思わず大きな喜びの表情が走る。旦那が言うので一応笑みをたたえた女房の顔には、あきらめに似た表情とともに別の何かわからぬ表情が走る。三人が帰ったあと、またいろいろと女房と話が出る。例によってあまり期待できない夫の全面的な協力を宣誓することで、なんとなく話が落ち着く。しかし、先ほど彼女が見せた別な表情とは、なんだろうか?
 
"家のお嫁さんが働きに出ていると言うなら農家の奥さんはどうなの、この土地名産の長ネギで生計を立てている農家は多いわ、夫婦して暗くなってからもトラックのライトを明りで、冷たい川の中、収穫したネギを洗っているのをよく見るのよ、さっき来た人の一人もそういった農家だし、それでもあれこれと隣り組の役を献身的にやっているじゃないの"

"お嫁さんが勤めに出ているんだったら、息子さんとか周りの人が手伝ってやればいいじゃないの"

 "それにおかしなことを言うのよね、先ほど頼み来たおばちゃんだって私達がやると言った途端、つい自治委員の仕事といってもそう大したことはないんだからと言ってたけど、そう思うんだったら自分でもやればいいのに・・・まだあのおばちゃん六〇代じゃないの"と胸の思いを吐き出す。

"農家やパートなんぞに働きに出ない主婦は、余程ヒマ人と見られているのかなぁ、口惜しいなぁ..."と口には出さなかったが心ではそう思っているのかなぁ...

 そんなことはないよ、お前が家にいてくれるだけで、我が家はあるんだよ。長い野営の後でも帰宅すれば風呂もちゃんと湧いているし焼酎も用意してある。部下や金のない後輩たちが不意に遊びに来てもパッパッと手料理で接待してくれるし、日本各地を転戦中も、実家の親が行く先々の土地に何度も遊びに来てくれたのは、君が我が家に居てくれたならばこそだ。
 転出先で子供達がそこの環境にすぐにはなじめず登校拒否を起こしたが、無事それを乗り切ったのも君が家に居てくれたからだと思う。今のところに居を構えた時に、働きに出なかったのも折角家を建てても子供達が帰宅した時に、ガランとして誰も居ないんじゃ家があるばかりに余計寂しいでしょうと言った君の考えには感謝しました。

 家に居てばかりも何だからと言って、行く先々で趣味のバドミントンで交友の輪を広げているのは誠に結構ですよ。我々が結婚した時代は、幹部は、共稼ぎするものではないと思ったし、現に先輩達も貧しい(?)生活の中、そうしていた。それこそ貧しいながらも各地で、親が、同僚・後輩が、それに部下やサッカー仲間の隊員達が、そして子供達の友達が我が家に気兼ねなく遊びに来てくれたのは、君がいつも家に居てくれたからだと感謝しています。


 "安らか"の"安"という字は、ウカンムリが意味する家に女性がいて、家事に努めれば家庭は安らかであるという字義だと何かの本で読んだことがあるがまさにその通りだと思う。
 "まぁ、今のご時世、昼寝付きの専業主婦なんてモッタイナァイ。結構なご身分だこと"と働きに出ている娘達がいっちょ前の口をきくが、心の中ではきっと感謝していると思うよ。
 その証拠にどんなに遅くなっても家にちゃんと電話するし、その電話にたまさか俺が出ると、驚いた声で"あっ、お父さん?お母さんに代わって?"といとも簡単に電話口から吹き飛ばされる。

 とても今の時代にこんな考えは通用しないが、「自衛官は、女房が家庭にいてくれることで、それこそ勤務に専念でき、そして家庭と同じように大事な部隊の仲間の面倒を見ることができる。それが女房が外に働きに出たいたら、それこそ、力は半減どころかマイナスになって、とても部隊の連中のことなぞ親身に見ることなんかできっこない。幹部自衛官としてやっていくなら貧しくてもそうすべきだ。」と仲人をしてくれた先輩に教えられ、それが幹部自衛官の生き様と思っていた自分に、安住の職務を寿退職して爾来二十五年、ここまでついてきてくれたことに感謝しますよ。


 そこで"俺も自衛官生活ももう終わりに近いし、これからの第二の人生も容易でないので、あなたもそろそろ働きに出てみる?"と言ったら、"もう?こんなおばさんをもの好きで雇ってくれるところはどこもありません?"と叱られた。 "はいっ? 定年後も引き続き全身全霊頑張ります!"