42期 徒然草
イジメ 谷口 日出男

 "これも、お父さんの小さい頃の報いがいま出てるんだわ・・・"と妻が言った。

 本当に苛めたなぁ・・・なんであんなにイジメたんだろう?まるでよその犬が自分のテリトリーに入り込んだみたいに、ワル友達と寄ってたかって苛めた。
 悪口言ったり、小突き回したりして泣かせた。いま思い出してもそこには狡賢(ずるがし)こく、小生意気で他人の心の傷みなんか全然意に介していない醜い少年時代の自分の姿が浮かび上がる。

 その時代、田舎では、転校生そのものが珍しくまた転校生は、得てしてその貧乏な時代においては裕福な子が多く、それなりに勉強ができる子達が多かった。
 例えば、学校の先生の子供とか警察官の子供だったりで・・・。そんな転校生は、よか服を着て、いつもうまそうな白飯弁当を食べていた。
 転校生が入ってくるとどっちが上かの闘争は、子供時代では当然起こりうることで、それはそれで子供の成長過程で当然見られる人生縮図だった。
 だがいけないのはその闘争が決着したあとも強い者が弱い者を苛め続けたことに、その傷みと悲しみがそれぞれの心に深く残った。

 特に、苛め続けた転校生がいた。憲ちゃんである。
 となりの町から、近所に養子で来た。大人しい、優しい子である。そんな憲ちゃんに俺が先導して苛め続けた。同じ地区に住む和男君や信ちゃんが俺の手先だった。

 辛かったろうなぁ・・・。

 養子に来て、実の親みたいに甘えることもできず、ましてやその時代、友達に苛められたからといっても今どきの親や先生と違って見向きもしてくれなかった。
 もしそんな告げ口みたいなことをしたらその何倍かのシッペ返しを食らった。それをいいことにしてその悪行は続いた。


 70を過ぎたいまでも想い出したくないおのれの醜い部分である。
 小さい頃は、心優しい少年?と誉められた。
 中耳炎で耳ダレが臭いとみんなから嫌がられた○○君、彼の父親は、シベリヤ帰りでそれこそ昭和27,8年頃帰還された。片手がなかった。
 子供の世界は、いつの世でも歯止めのきかない感情が暴発する。父親がそんな不具であることもイジメの対象になった。そんな彼に親身に面倒を見、彼へのイジメに対しては敢然と?立ち向かった。
 シベリヤ還りの父親からもお礼を言われた。
 (彼からは、今でも会うとその時のことで感謝の言葉が返ってくる。)


 だが成長するに連れ、そんな心優しい性格が歪んできた。
 あろうことか今度は、自分がその逆の立場にすり替わっていたのである。
 そのおのれのねじれてしまった心の矛先に、憲ちゃんがいたのだ。
 自分が然して感じてないそのジメジメしたイジメは、その後もずっと続いていた。だがそれも中学時代になるとお互い成長し、そんなことは自分の中では過去のこととなった。
 いま、彼は義父のあとを継いで、地元では名士として、大きな土建業業者として頑張っている。腕力ではとてもじゃないが勝てそうもない大柄な偉丈夫の体格である。


 その後自分の人生で中学・高校時代でのイジメの記憶は全然ない。
 俺たちの時代、もうそれは小学校時代に終わっていたのか・・・・・・また、自分自身がイジメの対象になったことは、記憶にはない。
 機を見るに敏な性格?と内に秘めた狡賢さがそれを救っていたのかも知れない。
 現役の頃は、悪名高き?上司からパワハラの標的になって、「お前なんか俺の前に顔を出すな!死んでしまえ!」とまで面罵されている先輩の姿に接し、もっと、毅然とするか、それが出来ないならうまく立ち向かえばいいのにと外野席から垣間見ていた。
 それにしてもあの頃はこんなヒデェー上司もいたなぁ。


 昭和の終わりに、北海道から九州の福岡久留米に転属になり、久し振りにふるさと宮崎での中学時代の同窓会に出席した。 今まで北海道とか関東勤務で九州を離れていたので同窓会に出席するのもそれこそ10何年振りかである。
 いつもの地元ばかりの同じような出席メンバーの中で、久し振りの俺は、転校生(?)のように大事にされた。
 昔のように小さな主役?だった。 車座の中で、その当時の話に花が咲き、焼酎も酌み交わされた。杯を酌み交わしながら憲ちゃんがいつもの穏やかな語り口でポツンと言った。
 "ひでちゃんには、よう苛められたなぁ、これは何年経っても絶対忘れんなぁ"と。
 笑みが消えた。
 俺の顔のどこかが引きつった。あの北海道で見た大きなツララがおのれの心に突き刺さりそれがやがて融け出し、それがいっぱいに拡がった。もう、酔いは覚めていた。
 その夜、宮崎から久留米までの高速バスの車中、窓ガラスの向うに通り過ぎていく闇に浮かぶ集落の窓明かりに、自分の醜い顔をそれに重ねながら、憲ちゃんの言葉を何度も繰り返し、甦らせていた。


 長女が中学3年2学期の大事な時期に、"私だけは、札幌に残して"いう彼女の願いも顧みずに、彼女にとってはふるさとでもなんでもない九州へと鎖をつけて、連れて帰った。
 長女が札幌を離れ難いのは親としても承知していた。その夜、九州に帰ることを子供に言った。
 その途端、彼女が自分は引越しするのはイヤだと泣き出した。あぁ、こんなに引越し・転校はイヤなんだなぁ・・・
 
 家族誰もがそんな思い入れのある好きです札幌を後にして、家族としては初めての久留米市にうだるような暑さの夏に、日本を横断してようやく辿り着いた。

 その新しい中学校の荒れた凄まじさは、札幌での彼女の中学生活に比べたら天と地の差があったろう。学校に行けなくなった。朝、登校時間になるとお腹が痛くなった。
 だが夕方、俺が仕事から帰るとニコニコと"おかえんなさぁーい!"と官舎の玄関口に迎えに出てきた。妻に言った。甘やかさんで学校にいかせろよ!と。妻が応えた。"いまはそぉーっとしといて、時が来ればまた元気になって学校に行けるわ。
 "父親として何か釈然しなかったが妻に従った。その時、俺の小さい頃の罪業を話した。

 妻が言う"これもお父さんの小さい頃の報いがいま出てるんだわ・・・"と。
 しかし、長女もやがて同じ官舎に住む同級生とも友達となり、また元気に登校し始めた。そして半年後に、高校に合格しそれから大きく変った。
 弱さを見せず逆に弱い者の面倒を見れる心の強い娘に育った。
 家族の誰もが馴染めなかったあのキツイ久留米弁も一番の使い手になった。しかし、三人の子供の中では一番の甘え下手になった。
 あのまま、あの札幌の藻岩山の斜面に家を立ててれば、札幌での別な人生を歩いたかも知れない彼女の道は、ここが新たなスタート地点となった。

 小さい頃は、大の仲良しだったお兄ちゃんとどこに行くのも一緒でその当時の写真は、いつも二人のスナップだ。
 やがて妹が生まれ、母親のオッパイは卒業させられた。親の子供への愛情は三分割だったが兄弟のワンサカかいた俺には知るべくもない兄と妹に挟まれた彼女の心の葛藤があったんだろうなぁ・・・本人が意識しようがしまいが・・・

 そんな彼女の気持ちも思うことなく、自衛官としての道を選んだ以上は、当然のこととして日本のあちこちを渡り歩きながら、彼女が成長していくのを傍観していた。

 子供はみんなそんなもんだろうと・・・その時、子供たちが今までなじんだ土地を突然離れ、新しい地でどんなにか不安いっぱいの中で勇気を奮い起こしていたかは、父親として図ろうともしなかった。 
 その当時父親として、それぞれ三人の子供達が新しい学校での紹介風景を思い浮かべただろうか?
 不安な気持ちで新しいクラスの生徒の前に立つ姿は、俺には経験ない。
 そこには「ひでちゃん」みたいな陰湿な?子供が待ち受けていたかも知れない。
 だが子供はそんなもんだと、ひとり決め付けていたことに今は反省している。
 そして、子供たちは、日本のあちこちで色々とあったが、それぞれがその壁を乗り越えてくれて新しい人生に向かっていってくれた。
 一番多感な時期に親の都合でその試練にぶち当たった長女もその壁をポーンと飛び越してくれた。

 そして今、長女は良き伴侶に恵まれ東京の空の下で人生を送っている。

 あの時、同窓会で彼からそのいじめの告白を受けてから二十数年来、彼に謝罪することのなくいた自分として、いつも心のどこかにその重石を感じ続けての二年越しの今までの同窓会出席であった。
 それが去年の同窓会でやっと初めて彼に面と向かって謝ることができた。この年になってやっとである。
 二次会の席でのカウンターの隣に座った憲ちゃんに云った。

 "ごめんなぁ、あんころはホント憲ちゃんにはワリィーことしたなぁ、すまんかったぁ、たまらんかったじゃろ?"
 "なんの、気にせんでいっちゃが・・・何も俺はそこまでは今はもう思うとらんちゃが・・・"と彼は言う。
 あの頃の懐かしいいい想い出話ばかりが続く。憲ちゃんの話を聞きながら感じた。
 彼は、その件のことは多分忘れていなかったと思うが俺のことは許してくれていたんだ。あ~ぁ、ホント悪いことをしたなぁ。もっと早くに謝るべきだった。あまりにも長すぎた。

 「折々のうた」(大岡 信)」にこんな文が載っていた。

 「傷つけたことよりずっとゆるされていたことつらく椿は立てり」  江戸 雪

 生活してゆく間にはこの歌にあるようなことを経験することもありうる。
 この作者は、自分が気づかぬうちに人をきずつけていたらしい。

 「ヘブンリーブルー咲きつぎ知らぬまにひと傷つけてわれの谷底」という歌もある。
 「ひと」はかなり親しい仲の友人かもしれない。
 傷つけられた方が、その後ずっとこちらを許してくれていたことが、ある時わかって愕然とする。
 取り返しがつかないこのつらさ。
 

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 年明けてのまた2年越しの中学時代の同窓会の案内が今回も届いた。
 これももうあと何回できるんだろうか、未だに「憧れの君」に会える楽しみと昔の甘えた自分を見出すのも懐かしい反面、またヒネタ自分がいたことを想い出させる心のどこかに重石を入れてのみんなとの顔あわせである。

 今朝もまた、「中学生、いじめによる自殺か?」との新聞記事を目にする。

 そのたびに、長女の転校時の不登校だったことが頭をよぎり、そして小さい頃のおのれの悪行とそれを七〇過ぎになった今でも引きづっている業の深さにふと何かを思う。