42期 徒然草 | |||
行く末(1/3) | 谷口 日出男 | ||
先般の新聞紙上によれば男の平均寿命も限りなく80に近い79.94歳と出た。 小数点二桁まで出す意味があるのかと思ったら、他の国との比較上そこまで算出しているみたいだ。 男は、女に比べ世界一ではない。今のところ世界で5位である。これでも十分すぎるくらいだ。何も世界一になれないことを悔やむことはない。要は、必要もないのに?生き続からされている老人が多いからである。 平均寿命と云う言葉に関連して「健康寿命」と云うのがある。 この言葉、謂わば、日々の日常生活において、まぁ少しの物忘れはあるだろうが自分の女房の顔は、間違えずに判別でき、日常行動においても、自分のことは自分一人で、できる寿命の限界である。 日々、毎食の御飯を食べることも、そして中には時たまの人も居るだろうが夕方になれば風呂に入ることも、そして四六時中催す排泄の後始末にもちゃんと人の手を借りずに全てが自分一人の力でやり遂げる日常生活における行動能力がある寿命である。 男の健康寿命は、いくつなんだろう? 今年の厚労省の発表によれば、平成22年では、男:70.42歳、女:73.62歳が健康寿命だそうだ。そうなると、この健康寿命と平均寿命の格差が平成22年度では、男で9.13年、女で12.68年である。年々、この格差が広がっているのである。この健康寿命が尽きたら、もう文句なしにこの格差の期間は、誰かのお世話にならないと生きてはいけない。 男は、なんと9年もの長い間、人の世話になるんである。命の方は、医学の進歩かそれとも介護環境の改善等によるものか、平均寿命は延伸しているのである。従って、平均寿命と健康寿命のこの健康格差の縮小は、これからの老人大国ニッポンの避けられない大きな課題なんである。 国としても、医療費・介護費が膨大に膨れ続けていくこれから先を思えば、国民は、存命中は、なるだけ健康で居て貰い、ある日突然にポックリと亡くなって貰いたいのである。 そのための健康施策、予防介護施策があれこれ施されている。しかし、日々の生活では、自分の身の回りにそういう人が居なければ、またそんな不健康な期間を過ごす人の介護を実際に自分でやらなければ、ジワジワとそんな災禍?が自分の身にも忍び寄っているのも感じない。 まだ意識としては、他人事であり、相変わらずの美食と労を要しない生活の便利さを追求しているのである。 健康集団そのものの組織からリタイアして、縁あって、二度目の職務が田舎都市の病院勤務となった。 そこで蠢く、健康格差である不健康な期間を過ごす人たちとそれを取り巻く医療と介護の現場を身近に見ながら早や10年が経った。 若い娘さんにシモの世話をしてもらう男性のお年寄りや鼻から長い管をズルズルと押し込まれ、喉に詰まった痰を吸引されている患者がその苦しさにノタ打ち回る姿を見たり、胃ろうと称する管を直截胃に差し込んで栄養十分な血色なれど痴呆が進み、口をアングリと開けたまま反応なしの患者を見ながら、自分もいずれこうなるんだろうと思うも、その実感?はない。 しかし、統計上は、もう俺も健康寿命がすでに尽きたのである。あ~ぁ! 先日の年寄りのサッカー試合でこんな末期の話が出た時に"俺は、試合でゴールを決めた瞬間にポックリと逝ければ本望だなぁ"と年下の仲間(年下と云ってもみんな60代)に言ったら、"谷口さん!そんなハタ迷惑なことをしないで下さいよ。葬式の時には、みんなでちゃんと行ってあげますから、亡くなるのはピッチじゃなくて自分の家か病院にして下さい"と云われた。 ポックリと逝くのも難しい時代なのである。こんな時代、果たしてどうやって自分の末期を迎えることができるか・・・ そんな考えてもどうしようもない思いを時折、抱きながら日々の勤務に、年相応に精励?している。 同輩諸官、どんな思いなんだろう・・・ 全然希望の無い厭世的な文になったけど誰か感ずるところあると考えて思いつくまま、こんな環境で体験してする思いをダラダラと綴ってみた。全部で3部作である。 先ずはじめに、プロローグとして、この病院に勤めて4,5年頃経った頃の思いを披露したい。ただこの文は、なんかの機会に一部の同期生諸官には、すでに押し付けたものであるのでその方々には、なんだ、またおんなじじゃないかの思いがあるでしょうが、これを話さないと次が進みませんのでご勘弁ください。次回の分からご笑読の程を。
ヒマだー。何にもやることなし。本を読むのも飽きた。外は冷たい雨が降っている。今年も間もなく暮れようとしている。土曜日の病院の午後は静かである。午前中のいつものメンバーからなるお年寄りの診断も終わり、待合室から続く廊下はヒッソリとしている。 60名の入院患者に約100名の職員を抱える地方都市の小さな病院である。自衛官リタイア後、最初の恵まれた職場の会社で、十分な恩返しの仕事をしないままに60の定年を迎え、そしてその会社の紹介で入った二つ目のこの職場もやがて丸五年が過ぎようとしている。この六十代の歳、振り返ればその五年の年月はアッという間に過ぎた感がする。早いもんだ。 同じ勤務地、同じ職務に五年もいればかっての二年おきにくるくると職務も任地も変る自衛官人生からすればもう完全なマンネリ態勢である。身も心もドップリとそれに浸り、日がな一日をボッーと過ごしている。決まりきったルーチンの業務はない。事務長なんて名前はついているがこの中小企業の組織体では名はその実を伴っていない。 尤も役職名なんてどうでもいい。そこで己が必要とされ、みんなから信頼されてればそれに勝るものはない。その点では、おのが人生の生きる術(すべ)は抜け目なく身につけているようだ。なんせ部下が一人もいない。これがまたいい。気楽である。 部下はいなくて上司は院長だけ、院長の命を受け指導・統制業務はあるも看護婦等や医事方もすべて俺とは横並びというのも身も心も軽くて環境抜群である。しかも、年の功と事務長という名と付け加えるなら己の人格(?)で職場では程よい尊敬と信頼を得ている。(と思っているが・・・) 仕事は要するに何でも屋である。頭では、院内の規程整備や契約書関連の手続きをしたり、出入業者や外部機関との調整をしたりと医療業界も結構あれこれある。また時折院長から頼まれる機関紙への投稿文を起稿もする。 医療業界のなんのもわからん人間に頼む方も頼む方であるが頼まれて書く方もまた大したもんである。 乏しい基礎知識であれこれアンテナを張って医療関連の情報を得ている。いまうちみたいなお年よりばかりを抱えた地方の中小病院がはらむ課題は、数年後には確実にその変革を要求されていることである。 病院という名前がなくなるかもしれないという存亡の時機である。いままでノホホン(?)としていた病院経営が寒風に吹き曝されている。その冷たい風は更に峻烈さを増してきている。原稿を書きながらふとそんな現実を思う。 身体の方ではもう「すぐやる課」で要求があればすぐに行動に移す。大きなのは施設の維持管理から小さいのはコピー用紙や洗剤等日常生活品の買い物まで何でもやる。 今までの人生からまったく畑違いの世界に飛び込んだので、日々のちょっとした行動や作業でもいろんな体験をし、また勉強もする。 ![]() この地方、全くの田園地帯である。迎えに行く家もそれぞれである。家族みんなで大事にされているとうかがわさせられる家もあれば一種独特の臭いのたちこめた冷たい部屋に一人ポツンと寝かされたままの家もある。 お年寄りの患者を乗せて家を出る時にもうこれが見納めになるかも知れないとその年寄りがじっと我が家を見ている。 見送る家族の表情にもチラッとそんな終焉の翳りを感じる。そうだよなぁ、できることなら長年住み慣れたわが家で自分の人生は全うしたい。人間、長生きし過ぎている。果たして、入院して更に管に繋がれながらも長生き策を講じるのがいいのか病院に勤める身でありながらおのれの意のままにならぬ「ヒトの来し方」を不図思う。 己の勤務する場所は、ちゃんと個室の部屋を与えられている。インターネットの繋がったパソコンがある。パソコンに向かっているだけで何か仕事をしていると見られるのもグータラ人生のずるい抜け道である。ほかの職場でもこんな輩がいるのかな? このインターネットの端末、ここしかないので俺専用である。病院内の職員で仕事上、インタ-ネットをやるものはほとんどいない。 時々、看護婦から各種委員会のため医療安全や感染防止の資料を探してくれと頼まれるほかは仕事上の必要性は、そう多くはない。この職場でパソコンに向かって従事する職務はそうはない。医事での医療事務の手続きだったり、会計事務の業務くらいである。 約100名の職員の大多数を占める看護婦さんたちは机に向かうことなく日々患者のケアに忙しく立ち回っている。机に向かう時は一日の看護が終わって、患者のケアの記録をする時であるがそこでは長年の習慣でボールペンを持ってノートに一生懸命に書き込んでいる。早く整理して子供や親の待つ我が家に帰って夕餉の支度をしなきゃと書くことに集中しているミドルエイジのその天使の後ろ姿を見て、パソコンでも使ったらと勧める気は起こらない。 取り立てて今やる仕事もない。本を読むのも飽きたし、インターネットにも気持ちが乗らない。外は雨だし部屋にいるしかない。 60名の患者が入院している病棟の廊下には、只今レクレーションの時間か患者が集めさせられ"もういくつ寝るとお正月 お正月には・・・"なんて唄っている。老人合唱団の張りのないトーンである。この唄も年代によっては残酷である。第一、正月が来たからといってここの入院患者が、病院を一時退院して我が家に帰るということは先ずありえない。正月こそみんなが集まるので、寝たきりの手の掛かる老人こそ病院で引き取っていて貰いたいというのが本心と懸け離れた家族の心境だ。 最初にその侘しい現実を見た時は、えっと思ったが冷ややかに見ればそれもむべなるかなの心境に到達した。正月を迎えるというのは、ある面では残酷な儀式でもある。 俺にももうそんなに待ちわびる気持ちはないなぁ・・・。 目の前にパソコンがある。ヒマなままに自分の家族の人生年表を作ってみる。エクセルを開く。本当に、こんな色んなソフトを開発した人の頭の中味はどうなってんだろう。鉛筆を舐め舐め、訓練検閲計画や年度の防衛計画を作成し、あの懐かしい湿式の機械でプリントアウトしていた幕僚時代が懐かしい。 便利なものができたもんである。 家族の年表なので始まりは結婚した年である。その時の自分の年令にカーソルをあてコントロールキーを抑えながらマウスを横に移動する。本当に便利だ。上の欄の年号に合わせて自分の年令がその下の欄に次々と加齢されていく。エクセル操作特有の動作でこんなとき一挙にカーソルが右に走った。慌てて止める。なんと百三歳になっている。まぁそれまでは生きるわけがない。元に戻す。どこで自分の終わりを告げるか・・・・実父七十、義父八十での黄泉の世界への転界である。俺もそれじゃ欲張って八十にするか・・・。 それから家族の欄にそれぞれ誕生から結婚、子供(俺にとっては孫)誕生などを書き入れる。現役時代は、日本のあちこちと流浪の旅が多かったせいか新たな任地に伴って子供たちの転校先が記入されていく。高校にやっとこさ入ったその夏には北海道から九州へ転校させられた息子や、転校後登校拒否になった娘たちの多感な少女時代が記されていく。そして夫婦二人に三組の子供夫婦それに孫二人の欄が年毎に埋まった。孫が少ないのがネズミ算と合ってないか・・・・。ここにも少子化の現実が顕れている。 あれこれ色づけして我が家の年表がカラーで浮き出た。結婚して約40年弱、住まいの欄を見ると、鍋釜ひっさらげて全国流浪していた期間と自衛官終盤の勤務がここ久留米になり、この棲家に落ち着いて経た期間が丁度半々になった。 もう、ここにそんなに棲んでいるのか月日の経つのも早いものだ。何の縁も所縁(ゆかり)もない久留米も住んでみればここも都だ。両方の実家(宮崎、長崎)への交通の便もいいし、程よい大きさの町で妻共々それぞれのスポーツサークルの仲間に入れてもらっている。幹候校を眺めながらの日々もまた良し。 孫のところにはちゃんと写真が載っている。二人目の孫は、今年七五三だったのでそれを記入した。桝目が小さいのであれこれ載せることもできない。載せてもせいぜい年に1つのエポックである。子供たちの欄は、その余白のバランスがいい。ところが夫婦二人のそれぞれの欄には何にもない。勿論転属にあわせて任地と職務は記述されているがそれ以外は、もう何も書くことはない。定年前に北海道を旅行したぐらいが最大の出来事か・・・。仕様がないから俺の欄はサッカーで骨折したことを記入する。ご丁寧に今年も含めて2回も。 出来あがった実りのない年表を帰って妻に見せる。彼女の欄、すべて空白である。 ふーん!ヒマなのね!長男が札幌に来たのは小六の時よと早速、誤りを指摘される。お父さんのところ骨折以外に書くことないの? 私の欄、何にも書いてないけど? 来年以降は、やっぱり空白だよね・・・と妻が呟く。 そうなんだ!空白が一番いいのかも知れない。そこに交通事故や入院なんてのアクシデントはなかったし、ジャンボ当選なんてのもなかった。自衛官生活も決められたコースをしんがりでやっとこさついていっただけなので殊更書くこともない。今みたいにイラク派遣でもあれば己が人生に華が咲いたと思うに・・・。 しかし、この時代に自衛官として生きたことに感謝しなければならないだろう。自衛官本来の任務を果たす機会もなかったことをうそぶっているがそれは身の程を弁えない傲慢な態度である。天変地異の災害は別として、自衛隊が本来の任務を行動に移さなかったというのだけでもめっけものである。それを忘れちゃいけない。イラク派遣された家族がどんな思いで主人や父親そして子供達の安否を気遣っているテレビラジオの報道番組に接し、その大変さを思う。 無病息災がやっぱり一番なんだ。取り立てて書くほどのないのがいいのか・・・。 まぁ、できることなら孫の欄がもっと増え1ページでは収まりきれないほどになればもっといいんだけど・・・。こればっかしは神頼みである。 これから先も海外旅行を望まぬ妻の欄には取り立てて書くことはないだろう。俺の欄も空白のままがいい。もう骨折もないだろう。 そして八十の年に二文字が記入されれば・・・ そんな話を妻にしたら下の孫娘は、まだ成人式も迎えていないわ、せめて成人式までという。 カーソルをひとつ右にずらした。81歳までに。 それにしてもあと十数年しか残っていないなぁ・・・。 急がなくちゃ!! 何を? |