42期 徒然草
行く末(2/3) 谷口 日出男

 年老いて、毎日を生きて生活する上で、他人の世話になるステージは様々であり、ヒト、それぞれに否応なくそのステージに入っていく。自分の家で生活し、時折病院通いし、そこでリハビリ等のケアを受ける第1ステージ、伴侶や家族の支えで家ではまだ寝起きはできるが、できることなら日中だけでも面倒見てもらえる施設にと、日帰りもしくは数日の寝泊まりができる施設を利用する第2のステージ、そして夜中は徘徊するわ、言ってもわからんわでもう、家ではとてもじゃないが面倒見きれんので、病院に入院するか、入院できんならどっかで預かってくれる施設を利用する最終段階の第3ステージと2000年に始まった介護保険制度により、まぁおおむね、年寄りに対しては、至れり尽くせりの施策がなされている。 
 日本全体が貧しかったあの小さいころ、年寄りがクラーイ奥座敷にひとり、ポツンと柱に寄り掛かった姿勢で日がな一日ほったらかし?にされていた光景を思い出せば、この日本での今の時代、誠に結構なことである。国に対し、そしてそこで介護してもらう人たちに感謝である。
 こんな第2から第3ステージに突入したお年寄りを日々、見ている。やがて間もなく俺の方も間違いなくそのステージに近づいているのを感じながら・・・
 
これは、まだ曲がりなりにも自分の家で寝起きができるも、日中は、できることならどこかで面倒を見てもらいたい第2ステージの人たちのここ田舎町での光景である。


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24.8.24
 末路は何処か・・・

 "ミチヨさん、そんなこと言ったらいけーん、人という字は、ほらっ、支えあってできてるでしょう、だからミチヨさんも自分のことばかり言ってないでヒト(他人)のことを思ってあげなきゃ"と職員の福岡さんが90を超したミチヨさんに懇々(こんこん)と話し掛ける。このくらいのことでは、ミチヨさん、なかなか引っ込まない。まだなんかブツクサぼやいている。人生50年というのにこんなに長生きし過ぎたの、目も見えなくなったの、今日もバスの迎えが遅かったのと・・・いつものボヤキである。とにかく口は達者、職員も適当にあしらっているもいい加減さじを投げ出す時もある。同居の嫁さんも時折、職員にグチをこぼしているようだ。この人、俳句を詠む。センターの広間には、何首かの句が飾ってある。長生きし過ぎたとぼやいているわりには、「朝起きて、寒さにおびえる私かな」なんて詠んでいるのを見ると、素直に感情が出ていて俺はいいと思うんだが、俳句としてはうまいのか下手なのかわからん。しかし90を超したこの年でこうして四季折々の(うつ)ろいを五七五に(まと)めるとは大したもんである。バッグにはチラシの裏を利用したメモ帳がいつも入っている。バスの席に座ってもまだブツブツ云っていた。

 病院が併設しているデイサービスの職員が辞めたので急遽(きゅうきょ)、デイーサービス利用者の朝夕の送迎を支援することになった。事務長とは名ばかりのなんでも屋である。この種の福祉関係の仕事、献身的な職務が求められるわりには、給料が低くてなかなか人が定着しない。ここも定数7,8人の職員も毎年1,2名の入れ替わりがある。新たな人が来ればいいほうで求人広告を出しても応募者が全然来ない。それで俺の応援である。送迎支援の仕事は、7,8人乗りくらいのマイクロバスの運転手である。それぞれのお年寄りのうちを、介助の職員と廻って乗せて来るんだけど色んなお年寄りがいるし、そのお年寄りが住んでいる処で(うごめ)く色んな家族模様、人生模様を垣間(かいま)見ることができる。
 最初にここの病院勤務した時に、当初の見習の仕事がこれだったので特に抵抗はない。むしろお年寄りに接し喜ばれ、あれこれ話ができるのがいい。日頃、机に座ってボケッーとしているまったく変化のない毎日からすればいい刺激剤でもある。病院勤務専属になってからも、こうして送迎支援を時折頼まれるので顔見知りも多い。お年寄りたち、病院にとってはいい固定客?である。日々の外来、リハビリ、そしてデイケア、デイサービスの利用、最後は入院やグループホームへの入所と、病院が多角的に経営する各種施設に絶えず通ってきて頂いている上得意さん?である。そんなお年寄りにすれば、俺は、丁度そのお年寄り達の息子の年代に当るんだろう。極めて近い親近感を持ってくれる。こちらも宮崎で弟夫婦と暮らしているやがて97になる自分のおふくろや長崎で一人住まいしている86歳になる義母のことを思い、利用者の心情を推し量っている。大正何年生まれと聞いても宮崎と長崎の母親を尺度の基準としてその利用者の年を数え、自分の親の元気さを不図思う。宮崎の方は、昨年秋から初めてこの種の福祉サービスを受けているとか、長崎の方は、まだ利用したことがない。

 "ずっとそっちに置いちょってくれんの!""ほんまに手が掛かるんだからこのババァーは!"と息子に毒づかれたハル子さんが職員に手を支えられてヨタヨタと歩いてきた。前はそうでもなかったような気がしたが久し振りに見るともう、すっかり精気がなくマダラ呆けの症状も出てきている。バスに乗り込む際に、うしろに廻って介助してやる。ムッと臭う。洩らしてんだろうな。運転席にも(ほの)かに臭いが泳いでくる。すでにバスの中には4,5人ほどの先客あり。誰もが()がされている。ハル子さんちに行く職員、誰もが感じているようだ。自分の実の母親に毒づき時折、手まで出している息子の暴挙に・・・何度か俺もその息子を見た。いつも眉間にシワをよらせた品のない顔をしている。嫁さんはいないのか顔を見たことはない。屋敷は、立派である。庭も手入れが行き届いている。なんでこんな男がこんなに立派な屋敷に住んでんだろうと、ウサギ小屋に住んでいる吾が身と比較して、世の不合理?を思う。まぁ、屋敷と住人の人格は、関係ないか。それにしても自分の母親に向かってそんな言い草はないだろう。
 しかしこれも当事者しかわからぬ親子の感情であろう。何も解らぬものが教師めいたことを言っても世話はない。痴呆の混じった母親の何度云っても判らない行動に、度量のない息子の堪忍袋の緒が切れた行動の衝突も(うなず)けないでもない。だがババアだの暴言や人づてに聞く暴力はいけない。
 かぐわしい臭いを乗せたまま次のところに向かう。男性である。まだ若い。70ちょっと過ぎかな、脳梗塞を患い、身体が不自由である。左半身が侭ならず、歩行にも介助が要る。坊主頭に白髪混じりの無精ひげを生やしている。年のわりには老けて見える。大人しい御仁である。道路の通り(ばた)のひっくり返りそうな家から扉を開け、奥さんに支えられて出てきた。バスの中のお年寄り達が好奇心を持った目でこの年の違った夫婦を覗き込むようにして見ている。誰もが何も言わない。その奥さん、旦那を職員に預けるとすぐに扉を閉めて引っ込んだ。職員が云うには、奥さん20ぐらい若いとか、体型は、もう完全なシリンダー状のメタボである。顔は、やさしくニコニコとかっての女優の轟夕起子みたいな温かみのある風情をしている。どんな夫婦なんだろう?なんのDNAの組合せで二人は結ばれたんだろう?旦那がこうじゃ、何して喰って生きてんだろう? 同乗者のお年寄りと同じ様に、俺も心でこの男性より女性について詮索(せんさく)している。
 
 利用者の家を覗く?のも一興である。家族構成でなく家屋敷である。古くからの家が多いこの地方、昔からの家は、ガッチリしている。庭も広く、植木の手入れも良く行き届いている。土間のたたきは、まだ土だし、その土が長年にわたって住人に踏み固まれ、表面はもうニスを塗ったみたいにてかてかと光っている。薄暗い広い土間、天井には黒光りした大きな梁、障子で仕切られた居間へは、はいつくばって登るような高い上がり口、いずれもが懐かしい風情である。そんなところに住んでいるお年寄りが家族に見送られて迎えの職員とともにデイサービスに通う。
 そしてデイサービスを利用するお年寄りの住んでいる状況と同じ様に、経済状況も様々である。裕福なところもあれば年金だけのカツカツの生活状況の人もいる。しかし、まぁ概して小銭持ちが多くて日頃の生活にはそう経済的には困窮はしていないか。
 足りないのはお金でなくてそのお年寄りを支えてあげる廻りの手である。こうも年寄りが長生きし過ぎて、働く女性が増えてくるとこの種の手不足は一目瞭然である。かって見られたような家族構成が欠落し、年老いても差し伸べられる年下の手がないのである。70歳以上が現在、3000万人を突破したとか、団塊世代のピークが迎える頃はどうなってんだろう。そのころになると、冒頭のミチヨさんが言ったように"長生きしてもなんもいいことはありゃしない!"とボヤキの世代があふれ出るかも知れない。
 じいさんばあさんが隠居部屋で日向ぼっこして、孫が庭に放し飼いにしてある鶏を追っかけて走り廻り、その(かたわら)で嫁さんが山のような洗濯物をたらいで洗っている光景は、もう遠く二度とは還ってこない風情となった。 
 
 息子は、すでに勤めに出てしまい、孫はまだグータラと自分の部屋で寝ているか玄関口には、脱ぎ捨てられた大きな靴が転がっている。そんな温かみのない玄関口に、スミエさんが一人ポツンと座ってバスの来るのを待っていた。息子のお嫁さんは、5,6年前に亡くなったそうだ。スミエさん、リュウマチである。右手掌の指は開かない。家事はできない。嫁さんがいない男所帯、玄関口からいつか覗きこんだスミエさんの部屋まで、ものが散らかっていた。デイサービスで食べるお昼ご飯が一日で唯一の最上のご馳走かも知れない。最後まできれいに食べている。俺に会うともう顔いっぱいの喜びを見せて自由の効く左手で俺の手を握り締めてくれる。あったかい手である。スミエさん、豊かな胸をしている。前の見習時代、お風呂でも何度かスミエさんの入浴介助をした。彼女が左手で豊かな胸を持ち上げて貰って、その間に、胸の重み?で赤く擦れた部分を、俺が手に石けんを漬け優しく洗ってあげる。時折その手の甲に柔らかい乳房が触れる。大きなマシュマロの様に柔らかい。気づかれないようにそぉっ―と手の甲で押し上げる。スミエさんの目が微笑んでいる。母親の目である.慌てて触れていた手を下す。懐かしい母親の温もりを感じさせる人である。
 朝の出迎えの時は、いい。だけど4時過ぎに送って行く秋から冬にかけての午後は、侘しい。干拓地の廻り一面の田んぼの中にある集落にあるスミエさんの家、寒くなってあたりが薄暗くなった火の気のない部屋で、何も出来なくてひとりポツンと、仕事で疲れて帰ってくる息子を待っている。この瀟洒(しょうしゃ)な外観の家でいつも思う侘しさである。
 

 職員は、利用者のお年寄りを呼ぶ時には、男性に対しては名字で呼ぶことが多いが、女性に対しては大概はその名前で呼ぶ。決して、おばあちゃんとかおじいちゃんとは呼ばない。色んな名前の人がいる。この年代の女性、なぜかカタカナ名が多い。これで打ち止めだ?と言うのでこの名前がついたと云ってたトメさん宅に着いた。60過ぎのお嫁さんが孫娘を乳母車に乗せてバスの到着を待っていた。90を過ぎた皇太后みたいなトメさんを、迎えに行った職員が奥の家から連れ出してきた。そのうしろを2,3歳くらいの女の子がベソをかきながらついてくる。ここもまた世の不幸を背負って生きている。トメさんの息子は60過ぎで亡くなり、その嫁さんと二人暮しのところに嫁さんの長男が家族を連れて帰ってきた。三人の子供を連れてである。説明するのもややこしいが、トメさんにとっては孫一人とひ孫三人のご帰還である。いままでの嫁さんとの年寄り二人暮らしの寂しさから抜け出た。賑やかな家族団らんの時がこれから始まるだろう。だが現実は、そんな絵に描いた様な神の思し召しはなかった。
 孫に、肝心の嫁さんがいないのである。死別でなく離婚である。保育園に行っている4歳の長男、先程トメさんの後をベソをかきながら出てきた二歳の長女そして乳母車に乗った丁度一歳の誕生を迎えた次女、この三人の幼児、母親の温もりを知らずしてこれから巣立っていかねばならない。どうして?こんな子を置いて・・・そして俺とあまり変わらない年代のそのおばあちゃん(トメさんではない。トメさんの息子嫁)は。ややボケてきたトメさんといまが一番母親の肌と温もりを欲しがる孫三人の面倒を見て生きていかねばならない。何たる哀しい現実か・・・
 美智子さんには、自分の身体が不自由になった上に、嫁がなく、そしてトメさんとこのお嫁さんには、夫と早くに死に別れ、しかも息子の嫁が三人の子供をおっぽり出して居なくなってしまった。 

 だがこうして曲がりなりにも家族の誰かと住んでいる人は、ある面からいえば幸せかもしれない。送迎バス第一便の最後は、サチ子さん宅である。サチ子さん、所謂(いわゆる)独居老人である。老人といってもまだ70代と思うがなんか生きる気力があまり見られない老婦人である。足が不自由のため何でも手が届くところに置いてあり、食事も昼に届けられる配達の弁当を二つに分けて昼と夜に食べている。そして夜の分は、冷蔵庫にも入れることなくほったらかしのままテーブルに置いてある。腐るからと注意しても別に反応なし。テーブルには封を切ったスナック菓子の入った袋が2,3個置いてある。県外に住んでいる娘さんが時折、訪れる際に置いていったオヤツだそうだ。サチ子さんの状態、5年前、初めて見た時からあまり変わっていない。その変化のない生き方が寿命を安定させているのだろうか。昔はそうでもなかったそうだ、身綺麗な格好をして、きれい好きで庭にはいつも花が咲いていたという。今は、庭は荒れ放題である。蛇もいるとか・・・
 新聞が玄関口に放り込んである。エッ、サチ子さん新聞読むの?センターではとても読み書きができる風情でもないのに。他の介護職員から聞いたサチ子さんの話によれば、恐い?勧誘員に押し付けられたとか。ここにも金のためには、こういった独居老人を食い物にする強欲な(やから)が現実にこんなところにもいることを認識させられる。
 年老いた身で夕方、暮れなずむ夕陽をガラス越しに感じながら一日の終わりを待っている。夕食は、お菓子の袋と一緒にテーブルにのっかている昼間の食べ残しの冷たくなった弁当である。ふと、長崎で元気に前向きにひとり暮らしている義母(はは)を思う。
 
 色々な人生模様がある。この大正から昭和の初めにかけての年代の人たちは、それこそ筆舌に尽くし難い荒波の時代を生き抜いてきた。しかしこんな逆境にめげずに今のお年よりたちは、強い。言葉は悪いがそれぞれにしたたかに生きている。そうだろうな、これまでの苦労を思えばこんなにしてデイサービスなどの介護サービスを週に何回か利用できるだけでも幸せなことかも知れない。
 従って、こうしたサービスを受けることに対しては、ほとんどの利用者が心からの感謝を持っておられるのがわかる。それに引き換え、これからその介護されるゾーンに突入し、こうして人の世話になろうとしている甘やかされた年代の生き方はどうなんだろう。耐えること、我慢することに対してそう鍛えられてなく、そういったサービスの供与に対しては金を払っているので当然だと己の権利ばかりは、声高く主張する年代が人の世話になって生きる時はどうなんだろう? この介護の世界、不可欠な要素は、利用するものとサービスを提供するものの「思いやり」と「感謝」の心である。簡単なようだがこれがまたうまくいかない。
 
 10数年後、今度は俺もこんなにしてバスに迎えられるかもしれない。そんな時は、どのタイプのお年寄りになってんだろう...。
"谷口さん、おはよう!はぁ~い!お口をアーンして!"
"アラッ、また入れ歯を入れるのを忘れてんじゃん?これじゃ、ご飯食べられんとよ、どこに置いたっつね?" って云われてるかも... 
 果たして、俺の行く末は、どれなんだろう...あ~ぁ、イヤだね、長生きするのも...
それにしても、もうすぐだな、お迎え?の車が来るのも...(どっちの?)
 大正から昭和初期にかけて、生まれ育った八人のお年寄りを乗せたバスは、少しは薄くなった香りを車中に漂わせながら、デイサービスセンターの玄関に到着した。
"おはようございまーす!"と職員の元気な声に迎えられた。
香りのするハル子さんは、すぐに浴室に連れて行かされ、オムツ交換に着替え。そして、ここでお年寄りたちは、先ずは、体温・血圧測定と健康チェックを受け、お茶を飲んで、軽く体操した後はお風呂に入り、身ぎれいにする。その後、おいしいお昼をごちそうになり、昼寝をして、目覚めれば、ゲームしたり、唱ったりとちょっとしたレクレーションで体を動かす。最後には、おやつを食べて、4時には、またバス乗ってそれぞれの我が家に帰るのである。アッというまの日々の繰り返しなれど、帰る際は、誰もが笑みをいっぱいたたえて、両手を合わせ職員に感謝している。
"ホントにありがとうございました"と。
 
 "どうぞ、ごゆっくり!"とバスから降りるお年寄りに、俺は声を掛け、また次の利用者宅へ迎えにとバスを走らす。
 そこには、また別なお年寄りの人生模様と家族模様が待ち受けている。