42期 徒然草
その子一人のために 谷口 日出男

 仕事辞めて始めた朝の散歩は、気が向けば行くし、そうでなかったら布団の中でグダグダといつまでも寝ている。行く時間もさして決まっていない。朝起きて行きたいときに行くが、このところ8時前後に、近くの小学校通用門付近にたどり着くのが日課になってきた。
 今朝も寒かったが起きてすぐに飯とならないのでいつもの防寒スタイルで我が家を出た。校庭の外柵沿いには、「伸びゆく子供たち、みんなで育てよう」とか「あいさつは、一日の始まり、大きな声で、元気よく!」等のノボリが建っている。

 学校に向かう子供たちと行きかう。
 "おはよう!"と声を掛けてもちゃんと"おはようございます"と云える子もいれば、何よ、このじいちゃんは?と胡散臭そうな顔で俺の顔を見上げる子もいる。 
 そんな子には、
 また元気よく"おはよう!"と声かけると仕方なしに、小さな声でおはようございますというが俺の顔なんか見てやしない。なんだ、このガキ、ちゃんと返事ができるじゃないかと思うも、あ~ぁ、そんな思いをする俺もイヤなじじぃーになったなぁと自己嫌悪を感ずる。だから、このごろは、返事が来ようが来まいが、ただ元気よく"おはよう!"と声を掛けるだけにしてそれ以上はのぞまない。子供だって迷惑してるだろうから・・・
 
 今朝もそのクイズは、通用門の柵に掲げてあった。きのうは、「冷たいときに空から降ってくる動物は、なぁ~に?」だった。これは俺にもすぐにわかった。そして今日は、「人の言うことを聞かない乗り物はなぁ~に?」だった。
 2年生ぐらいの女の子も一緒に見てた。
 わかった?と聞くもわかんなぁーいと答える。俺もわからず。答えはここをめくればわかるようにとカバーがしてある。それをめくってまで見る気にもならないので、わからないままその場を離れた。その子もめくらずに校内へと去ったが、振り返るとその子が急いで走って戻り、そぉっ―とカバーを持ち上げて答えを見てた。
 それにしても、毎朝こうしてクイズを通用門に張り出して子供たちの登校意欲?を促しているなんていいなぁ。

 クイズの答えは、耄碌してしまった俺の頭ではとうとう出てこなかった。ホント、このごろ何か考えてもなかなか思い出せないことがしばしばある。年相応に頭の中のセルは、壊れていってるのか。口惜しいけど散歩コースを変えて、帰りにまたその通用門のそばを通る。先ほどチャイムが鳴っていたので8時半も過ぎただろう。もう登校している子もグランドで走り回っている子も誰もいない。そぉっ―と、カバーを上げて答えを見る。なぁーんだ!そうだったのか。
 

 不図、校庭を見ると1年生ぐらいの男の子が遊具施設のとこに座り込んでいる。そのそばに先生だろうかメガネをかけた大きな男がいた。その子供、ブーメランみたいなものをもって遊んでいる。その先生が覗き込むようにしてその子供に話しかけている。子供は駄々を捏ねたようにかぶりを振っていうことを聞かない。もう、校庭には誰も居ない。その先生は、そばに寄ったり離れたりしながらその子供に話かけている。その子供に何かあったんだろうか?遠くから見る感じでは、その子、自閉症児でもないような普通のそぶりである。

 どのくらい経っただろうか、それまで怒声を上げるわけでもなく叱るわけでもなかったがここを潮時と見たのか、その先生はその子をドーンと抱っこして、校舎へ向かった。抱っこされた男の子は、先生のふところで暴れている。それでもその先生、男の子に優しく話しかけながらあやしている。
 大変だなぁ、先生も。それにしても偉いなぁ、その包み込む大きな気持ち。

 その先生、クラスを受け持っているのかな、そうすればその男の子以外のほかの多くの生徒たちは、どうしてんだろうか? 朝の始業のチャイムが鳴ったというのに教室内でその先生と駄々を捏ねている級友をみんなで待っているんだろうか?その男の子、教室に行ってもちゃんと授業を受けれるだろうか?ほかの子たちの迷惑になってはいないだろうか?これが今日限りのことでなく、毎朝繰り返されている光景なんだろうか?と、もう、想像の世界でしかない今の小学校の学級光景にあれこれと思いを巡らす。
 前にも孫たちからもクラスに落ち着きのない子がいて勉強に集中できないと学級崩壊に近い類の話を聴かされることがあった。俺たち時代にはなかった世界がそこで繰り広げられている。そんな子供一人に、先生は振り回されほかの大多数の生徒の面倒を見るのがおろそかになってはいないのだろうかと余計な老婆心が走る。
 その子一人にかける労力とそのほか全体の子たちにかける労力の天秤は・・・そりゃー、人命は地球より重しの喩でその一人の子を見捨てることはできないだろう。その言葉が美しいが故に?     


 ひとりにとそのほかの全部へとの努力の傾注の天秤の量り、現役の頃を思い出した。

 
 着校早々の任官拒否の申し出に頭を痛めていた。防大卒業時に任官拒否し、この久留米の幹部候補生学校に着校しないのは何十名かいた。それはそれで事前にわかっていたし、初めからいないことと思えばここでのこれからの修学には支障はなかった。問題なのは、防大卒業時に任官辞退を申し出することが出来なくて、当校に着校するや申し出た候補生たちである。多い時には、そんな煮え切らない?輩が各区隊に何名かいた。

 辞退をここで申し出る言い訳は、あれこれあった。防大指導官に諭され、とにかく久留米に行って来いと云われやむなく?来た者や、防大時代、学生長等の役職であったり、校友会活動のキャプテンであったりと有能?であるが故に後輩の手前、卒業時に申し出ることが出来なかったという噴飯そのものも何人かはいた。
 これから区隊長のもと、みんなで頑張って行こうというのにその出鼻を挫かれたのである。その頃は、防大卒業時の任官拒否者が陸海空併せて7,80名を超え、社会問題にもなるそんな昭和末期の時代の風潮だった。

 そんな輩の一人を持った区隊長が言う"任せてください。私が説得して見せますから"と。それから、彼の昼夜を分かたずの努力が始まった。
 しかしむなしく時が過ぎるだけでその候補生の心に翻意の変化は見られなかった。その頃は、BU合体教育で各区隊、BU混成の約40名弱の候補生で編成されていた。
 防大卒業生たるBの連中はまだしも朝起きて満足に毛布も畳めない初めて自衛隊なるものを体験する一般大学出身者のUの連中の心のケアは、より求められるものがあった。
 そんなときにこのBの男ひとりのために区隊長は、身を削らされていた。ある時、その区隊長に云った。"もう、いい加減、お前がダメと思ったら引導を渡せよ。俺も最終的にもう一度面接してみるから"と、そして"もっとほかの候補生を見てやれよ、彼らだって彼女らだってお前からの愛情を欲しているんだから"と。
 しかし、区隊長は、必ず翻意させますからもう少し、時間を下さいと答えた。
 俺もこの間、退職意志を申し出た候補生全員と何度か個別に面談した。誰もがそれなりの屁理屈と言い訳?を述べる。そんな候補生に対し、時には腹立たしく思いながら、説得に努めている区隊長たちの心情を慮った。
 クラブの後輩たるある候補生なんかは、区隊長がそうしたように、俺も我が家にも呼んで飲ませ食わせ翻意を促した。しかしいったん辞めたいと申し出た候補生の心をもとに戻すのは難しかった。結果的にはその大半は、中途で辞めていった。
 その区隊長が抱えたその候補生は、区隊長の熱意が通じたのかほかのそれより長くは持った、しかし、結局は、逃げられた。 
 この間、区隊長を指導監督する立場上、何度かその区隊長に対し、一人への傾注と全体の面倒見のバランスを話したことがある。何もそのBの候補生に引っかかったためにそのほかの候補生の面倒見がおろそかになったとは思わないが、外野席から見ていてあまりにも偏っているような感じをしたからだ。しかし、それは杞憂に終わった。
 結果的にはそのBの候補生の翻意はかなわなかったが彼がその候補生に示した愛情は、同じ区隊の他の候補生に無言の教えとなっていたのだ。そこには、誰もが信頼してそして自分たちの指標として仰ぎ見る区隊長のもと素晴らしい区隊が出来上がったのだ。


 それから数か月後の10月、Bの候補生は卒業し、それに伴いUの区隊も編成替えになった。
 しかし、その編成替えの時に、またその区隊長のもとで引き続きお願いしますと入校時と各段に成長したUの候補生たちの懇願があった。
 彼は、すべての候補生の心を掴んでいたのである。
 そして今年もまたその当時の候補生から貰った年賀状に、その区隊長を囲んでの東京での区隊会の集合写真が載っていた。候補生みな、それぞれ部隊の骨幹として、そしてその区隊長は、高級幹部として枢要な地位を収めている。その区隊長の愛情の深さというか大きさを改めて感じさせられた年賀状だった。


 候補生は、区隊長を指標としておのれの人間性を陶冶しろと教える幹部候補生学校での区隊長の素晴らしさがそこにあった。
 そしてこの区隊長のように、校庭で見たその先生もこうして誰一人も見棄てることなく愛情を注いでいることがほかの児童にも無言の教えとなり、今更天秤に掛ける必要もないのかもしれない。


 Add.

 ネット情報によれば、任官拒否というのは防大卒業時にそれぞれ陸海空の制服を着らずに、午さん会にも出席せず、あの正門での後輩諸官の見送りを受けない連中を云い、それに対してそれぞれの幹部候補生学校入校時から6年以内に辞めたものを早期退職者というそうだ。
 従って本文の連中は、早期退職希望者と言った方が正しいか。平成26年の入学生からこの任官拒否者と早期退職者(6年以内)のものに対しては、防大在校時の学費約250万円を徴収する制度が適用されるとか? ホンマかいな。

 それにしてもこの当時の離職者は多かったなぁ。手元にある平成15年度版の防衛大学校の同窓会名簿を見るとこの当時の期は、ほかの時代の期と比べ、勤務先が本来の自衛隊のそれでなく、格段に民間職と空欄が多い。
 ある期なんかは、陸上70名、海上34名そして航空が21名もいた。

 彼らの期の勤務年数から言えば、普通科職種ならやがて中隊長等の要職に補職される経歴の頃である。

 大いなる人的損失である。