42期 徒然草 | |
終(つい)の棲家 | 谷口 日出男 |
やっぱり九州へ帰ろう! テレビを見ながらそう決めた。 外はみぞれまじりの冷たい雨、きのうは札幌郊外の中山峠では、初雪が降ったとか、北の国北海道も一挙に冬支度に突入しようとしている。 今朝なんかも最低気温は、零度に近かった。すでに室内の大型ストーブは、二週間ほど前には点火され、洗濯物も今までベランダでの半渇きから室内に干され、よく乾くようになった。 部屋の中は、もう灯油の暖熱の世界である。しかし窓越しに見る外の風景は、寒々としている。 向かいのトッカリの階段入り口から出てきた婦人は、すでにヤッケで毛糸の帽子なり。車のスパイクタイヤもそろそろ交換もしなきゃなぁと思うもこの寒空じゃその気にもなれない。 テレビでは、日本シリーズをやっていた。ナゴヤ球場での西武対中日戦だった。土曜日の午後、このみぞれ交じりの寒空じゃ外で別にやることもなくソファーに寝転んでのテレビ観戦なり。試合の方は、2回に清原の特大ホームランが出て西武がリードしての試合展開である。 しかし見ている方もイマイチ気が乗らない。ここ数日、頭に引っかかっていることがあるからである。仕事のことではない。 ![]() 2回目の渡道からやがて7年目、上富良野から異動して今は札幌の大都会?で5回目の冬を迎えようとしている。札幌、いいところである。中学3年をかしらとする3人の子供たちもここでの友達との付き合いそして季節ごとに変わりゆくここでの自然環境の中で日々の人生をエンジョイしている。 俺も遊びでは駐屯地の仲間たちとのサッカーや覚えたてのゴルフに興じていた。妻もバドミントン仲間やお茶飲み友達との付き合いでそれなりに充実した日々を送っていた。 しかしここでの生活がこのままで続くとは思わなかった。官舎を替えることなく札幌から真駒内駐屯地へ異動しての現職務も来年の夏には、丸2年目、やがて下番する時期である。 さて次は、どこに飛ばされるか?家族ぐるみの引っ越しもそろそろ決心のしどころである。 そこであれこれと思慮したのち、子供たちの将来を考え、ここは潮時とこの札幌に居を構えようと決めたのである。話はバタバタと進んだ。 部隊出入りの建築業者の主導のもと、夏には、札幌南地区の藻岩山山麓に土地が決まり、数週間前には、家の設計図も概成した。 その土地ももちろん見に行った。山の斜面には、びっちり家が立ち並び、そのどれもがシャレたいかにも北国の家並みであった。へぇー、こんなとこ? 紹介された土地は、斜面の一角にあり、両隣が迫っていた。まぁ、しゃーないか、俺の財力からしてこんなもんだろうとその契約書に押印した。 それから何度か業者が部隊や自宅に訪れ、建築への段取りの話し合いを持った。 ただ業者との打ち合わせ中、なんとなく気乗りしない自分がそこにあった。やっぱり、九州に帰りたいのかなぁ・・・ ![]() その頃は、今のドーム型のナゴヤ球場と違い野外のスタンドだった。 なんと観客席は、白一色である。ほとんどの観客が白色系統の上衣である。誰もがあの色の濃いヤッケとかボッコリの防寒衣は着ていない。中には半袖のものまでいる。秋の陽ざしに映えて白色が一層際立つ。 そうか、まだ内地?は秋なんだ。いいなぁ・・・無性に九州での秋景色が恋しくなった。試合は終わった。どっちが勝ったかはどうでも良かった。ただこの時に回を追うごとに心が固まっていったのは覚えている。 そうだ、やっぱり九州へ帰ろう!と。 その夜、妻にも決心できていない自分の弱みを打ち明けた。 妻が答えた。"お父さんがそう決めたらそれについていきます"と。 九州の両方の両親にも改めて相談した。すでに土地購入のため援助してもらっていたおふくろさんは元より、妻の方の両親からも帰ってくれることを切に望まれた。"もう、なしてそんな遠いところに住むの?早く帰って来んね"と。 決心変更!矢は九州となった。 先ずは建築業者との解約なり。札幌での生活を辞めて九州へ帰る言い訳をなんといったかは今は良く覚えてないが、そういう事情ならと快く応じてくれた相手に対し、自分の優柔不断な気持ちから迷惑を掛け申し訳ない気持ちでいっぱいだった。ただ契約書の解約や設計図等の作成等で占めて10万円ほどの違約金を払った。 ![]() そして、翌年の夏、札幌での勤務を終えて九州へ帰って来た。長男は、その年の春にやっと入った高校からの転校、そして長女は、中3と一番多感な少女期でここでの生活が離れがたく私だけは残してと泣いて懇願するのを鎖をつけて一緒に連れて帰った。 札幌を去る際に長男の高校の担任から言われた。"折角高校に入ったのに、子供の人生をどう考えているんですか?"と。 "そんなこと言われたって・・・"その先生がどういう趣旨で言ったのか今は、覚えていないがこの一言だけは、頭の隅に残っている。 九州の帰省先は、自衛官として最初の赴任地であり、そこから家族の人生がスタートした希望する熊本でなく、途中の何の縁もゆかりもない久留米に落とされた。 その道中も大変だったなぁ。 小樽から舞鶴までフェリー、それから山陰路を走り、SAで車宿しながらやっと関門海峡の大橋にたどり着いた。関門海峡通過中、鳥かごに入れられていたインコのピーコが枝木からポトッと落ちた。 その頃は北海道のほとんどの車には、クーラーなんてついてなかったので、車中のあまりの暑さにへばったのである。子供たちは大慌てで窓ガラス全開、本などで風を送った。何とか生き返った。 九州の暑さ、聞きしに勝るものだった。 長年の北国生活で家族の身体は、寒冷地仕様となり、毛穴も塞がって?いたのかなかなか暑さが発散できないのである。勢い、クーラーのある部屋から動くこともできず、家族のストレスも溜まっていった。おまけに札幌のような大都会から個性ある?片田舎都市の久留米への転校、その当時の学校は荒れていた。娘二人は、早速いじめに合い、登校拒否が続いた。 "あ~ぁ、やっぱり札幌に居るべきだったか"とこの時ほど心が揺れ動いたことはなかった。 しかしそれもやがて時が解決し、彼女たちもそのいじめられたのを糧に思いやりのある心の強い女性へと成長していってくれた。それを陰ひなたで支えてくれた妻と逆境に負けずに成長していく子供たちに感謝である。 そしてここでの生活が始まり、時の流れとともに今まで赴任先々でお世話になったトッカリ官舎から卒業?して、この地に居を構えることとなった。ここでの住処もまたゴルフ仲間の業者におんぶ抱っこしての土地選定からとなった。 それからここに居を構えての家族みんなの安住した日々が続いた。やがて年とともに、子供たち3人とも次々とここから旅立ち、それぞれの人生を歩み始めた。不登校の娘の癒しにと河川敷ゴルフ場で拾ってきた忠犬ノラ公も家族みんなから愛され14年の天寿を全うし、近くの葬祭場での野辺送りとなった。 今では子供たち3人ともそれぞれ家庭を持ち、他に居を構えている。残されたのは、老夫婦に時折顔を出すゴキブリ数匹だけとなった。このウサギ小屋の棲家もわが夫婦一代限りとなるだろう。 30万都市久留米、ここも住んでみれば今まで鍋釜ひっさらげて一族郎党ほっつき廻った全国各地と同じように、また良いところである。 大都市福岡は近く、野菜果物も豊富で、スポーツ施設・環境も充実し、何よりも程よい大きさの街であるのがまた良い。近場には、安い河川敷ゴルフ場がなんと四つもあり、平日はほとんど毎日使用できる市のテニスコートなんて65歳以上は、無料なんである。 遊び仲間も増えた。日々相手してもらえるそんな仲間に心から感謝である。妻もバドミントン仲間やご近所様との付き合いでそれなりに充実した日々を送っている。 日本のあちこちを振り回された子供たちにも、やっとここが本当のふるさととなった。 住み始めて25年、俺たちも養老院に収容されるまで、これから先もうここを動くことはないだろう。ここが終の棲家となったのである。 今日も年寄り仲間とのテニス、試合に負けたのは悔しいが、試合中は抜けるような青空のもと、まだ半袖、短パンでプレーできるのがいい。 あ~ぁ、九州に帰ってきて良かったなぁとつくづく思う。 夕食時のテレビニュースでは、北国に寒気団の南下を伝えていた。もう札幌近郊の山も初雪とか、ニュースのあとは、あのころと違って今は、日本シリーズ前のクライマックスシリーズをやっている。野外の神宮球場、観客席は夜というのにまだ半袖の観客を映し出していた。毎年このシリーズになると想いだすのは、あの札幌でのソファーに寝っ転がってテレビを見ていたときの思いである。 夕食後の洗い物をしながら妻が言う。 "今日、また墓地の案内の電話があったけど・・・お墓、どうします?" あ~ぁ、終の棲家はここじゃなくてまだあるのか・・・ |