先祖のルーツを尋ねる旅 2012.4.9〜10 |
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平成24年4月9日から10日にかけて米寿を前にした伯父さん(父の弟)とともにルーツの旅をしました。
その一つは、山口県下関市豊北町矢玉です、ここは先祖の本家で庄屋さんの内田家と分家内村の墓があり、伯父さんが小学1,2年生を過し、父が本籍地矢玉から招集され、母が父の出征を見送るために数ヶ月泊めていただいた、伯父さんにも亡き父母にも思い出深い、まさに内村家発祥の地なのです。
もう一つは伯父さんが15歳の少年義勇兵として満州に渡り筆舌に尽くし難い苦労の末引揚げ、再び日本の地を踏んだ博多港を尋ねることでした。コメントと共に写真を整理したみました。 |
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矢玉の最寄り駅JR山陰線「長門二見」に行ってみました、今回の思い出の旅のスタートです。
矢玉からバスや徒歩でここまで来るのです、母は兄を背負い、山口の連隊で初年兵教育を受ける父への面会に訪れるたびに使用した駅です。
駅前広場からボンネットバスが走っていた・・・。
その頃そのままの高架駅、たまたま今の山陰本線の気動車が駅に入ってきました。 |
山の上、庄屋さんの墓地を探します。 |
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親戚もいなくなって久しい矢玉に着き先祖の墓を探します、郵便局の脇からつながる道、急な石段が山へ延びています。
部落多くの親族慰霊の山でしょうか、墓石の群れが上に伸びています、ただ、山に登る大変さから多くの墓がお寺に移りお参りする家が少ないとのこと、道は荒れていました。
山の頂上にとても広くコンクリで整備された墓地がありました。
矢玉の大庄屋だった内田家の墓地です、本家筋の子孫がこの地に過しているとのこと墓地はそれほど荒れていません。 |
内村家のルーツを語る墓石 |
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山の上、撮影した背面方向は日本海・響灘、景色の良い場所に展開する先祖の墓地、今も庄屋さんと呼ばれる内田家の墓石が中央に、その後に内村の墓石が鎮座していました。 |
上は左の写真奥の拡大、左の写真は墓石の刻字を拡大、父が書いたものだと伯父が語ってくれました。
祖父が東京に出て日本橋で開業し、3代東京で育った我が家は東京に墓地があるため、この墓の話は着ていたものの私には生まれて初めての先祖墓参でした。 |
神玉小学校を尋ねました。 |
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80年経っても校庭の桜の下に立っている二宮金次郎はそのままとのこと。
校長先生が資料室に案内してくれ、伯父さんの同級生の卒業写真や当時の航空写真を懐かしく拝見しました。 |
矢玉を後に、関門海峡 |

思いを叶え矢玉を後に、福岡に向かいますが、途中、関門海峡を見下ろす絶景ポイント「火の山公園」で目の下に広がる関門海峡のパノラマを堪能しました。左は平家滅亡の地壇ノ浦を望み、右は関門大橋と巌流島方向を望む。 |
引揚港の代名詞になっている博多港を訪ねて |
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昭和21年、11月3日明治節(現在の文化の日)夢にまで見た祖国の地を踏んだ感慨は記憶が薄く、虚脱状態ではなかったかと語る。
米軍のLST(上陸用舟艦)で着岸した桟橋は整備され、係留に使った鉄のビットだけが当時の面影を残していた。
引揚記念碑に書かれている文章は余りにも空虚で伯父さんの胸には響かなかった。 |
福祉会館の引揚コーナーを訪ねて |
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コーナーは、引揚の全般を展示したもので、帰国手続きをする人々の群がる姿は当時の趣を表しているが、共に帰国した仲間の貧しさはこんなものではなかった。
港から、引揚者に与えられた証明書と無料切符をもらい、情報を求めて一路矢玉に向かったのです。 |
博多港が一望できるタワーに登り、引揚船 が祖国に着くときに見た左舷の島(志賀島 )と桟橋を思い浮かべました。 |
帰りの飛行機の中で・・・(右写真) |
伯父さんとルーツを訪ねる旅は終わり、飛行機の中です。
昭和15年、高等小学校を終え15歳から少年義勇兵として満州に渡り、20歳で現地で応召、半年後の2等兵で終戦を迎え、ソ連に抑留される列車から逃亡し、単身満州の地を生き抜いた凄絶な体験は、我々世代が生まれて間もない頃起きた事実なのです。
終戦時、満州・朝鮮の地での野獣化したソ連軍や八路軍、満人との生きるための戦いはまさに修羅場だったと思います。
伯父さんは67年前、辛酸を嘗める中、幸運にも暖かい満州人と出会い1年を満人として生きた過去を胸にしまい、米寿を前にした現実に戻りました。飛行機のシートに座り、息子さんが送ってくれた冊子を読む伯父さんの顔は今の幸せをかみしめていました。 |
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