42期 徒然草
熊野古道・小辺路歩き旅 山田 和夫

 恒例の夏の歩き旅は、最近の5年間は富士五湖をめぐる旅だったが、今年は年齢、体力を考えてテント泊から民宿に代えて、熊野古道の歩き旅を実施した。
 8年前に無事に四国お遍路でやり遂げたお礼参りとして高野山の総本山・金剛峰寺をお参りして、そのまま熊野古道を歩く。


 熊野古道は、紀伊半島南部の熊野三山(熊野本宮大社、熊野速玉大社、熊野那智大社)へと通じる参詣道のことで、昔から皇室、貴族、庶民などのあらゆる階層の人々が詣でた。
 今回は、いくつかある参詣道のうち、高野山と熊野本宮大社とを結ぶ小辺路(こへじ)を3泊4日で歩く。

 出発直前に、台風12号が東から西へ逆走する異例のコースを辿って、三重県伊勢市付近に上陸して近畿地方に大きな被害を与えたので、予め民宿に電話で状況を確認したところあまり雨は降らなかったとのことなので計画通りに出発した。

   7月30日(月)~31日(火):第1日目   
 
 30日夜、土浦駅発の高速夜行バスで大阪なんばに向かい、31日(火)の朝7時半に到着した。
 南海電鉄に乗り換えて高野山の麓の上小沢駅で下車、10時に高野山に向けて歩き出した。
 とても急な坂道をいったん谷底まで下り、そしてまた登って11時30分に古峠に着いた。
 ここからは高野山町石道(こうやさんちょういしみち)に合流、この道には1町(109メートル)ごとに道しるべが建てられており、古峠が124番で1番の高野山に向けて歩くことになる。
 この日はとても暑く、夕方5時に高野山の入り口の大門に着いた時には、道路わきの温度計が34.5度を示していた。
 歩いている時はもっと暑く、500㏄のペットボトル3本では足らず、脱水気味になってふくらはぎや太腿が痙攣を起こして難儀した。

 高野山山門は高野山の総門で、開創当時は現在地より下にあったそうで、現在の建物は1705年に再建され、両脇の運長作の金剛力士像は奈良東大寺の仁王像に次ぐ大きさで、とてもダイナミックで迫力満点だ。

 宗教都市・高野山は、標高800メートル、道路沿い約1.5キロメートルにわたって多くの寺院が立ち並び、その先が奥の院になっている。
 奥の院に近い宿坊・赤松院(せきしょういん)に泊まったが、出てきた坊さんは来日して15年の若いアメリカ人だった。平日だったこともあり観光客は少なかったが、町で会う人はほとんどが外国人でまるで外国に来ているような感じだった。

 赤松院は寺院ではあるが実態は旅館のようなもので、少年野球に参加する韓国の子供たちで食事も風呂も大混雑だった。 高野町には3~4カ所に野球場があり、例年この時期は野球大会で宿坊が占領されるそうだ。久し振りで子供たちと風呂で大騒ぎしたのが楽しかった

   8月1日(水):第2日目  
 
 5時半に宿坊を発ち、奥の院の弘法大師御廟をお参りした。
 一の橋を渡ると道の両側に約2キロメートルに渡って著名な戦国武将の墓所が続く。
 敵として戦った武田信玄と上杉謙信、高野山を攻めた織田信長とその信長を殺した明智光秀、更には豊臣家と徳川家など戦国時代では考えられない組合せの面々が共に眠っている。
 高野山の懐の深さというか死すれば全てが水に流される日本人の考え方が感じられる。
 写真は豊臣家の墓所。正面に秀吉とその母、秀吉の弟・秀長夫妻、長男の鶴松などの豊臣一族の墓である。

 
 コンビニで昼食と水を買って、8時30分いよいよ小辺路を歩き始めた。
 北条政子が夫・源頼朝のために建立した金剛三昧院の脇の急坂を上り、薄(すすき)峠~水ケ峰~平辻など標高約600m~1,100mの古道を上り下りする。
 本来の古道の雰囲気を色濃く残した小砂利が露出した道が続く。木蔭を進み気持ちが良いが、小石を踏むと転倒する危険があるので決して気を抜くことができない。
   ネットに熊が出没したことが書かれており、「熊に注意」の立て看板もあるので、薄暗く見通しの悪い道では気味が悪い。
 用心のため警笛を吹きながら進む。
 写真は最も良い道で、このような道はとても少なく大部分は細くて崩れかけていたり、木の根や小石が露出し落ち葉で覆われているような歩き難い小道だった。

 休憩を含み約8時間かけて4時半に大股の「津田旅館」に到着した。 80歳ぐらいのおばあさんが経営しており、すぐにシャワーを借りる。
 旅館といっても普通の農家で宿泊客があれば居間に泊めるといったタイプで、最大6名程度。夕食は猪のジビエ料理で脂身は多いがさっぱりしてとても美味しかった。

   8月2日(木):第3日目  
 
 今日は小辺路で最も高い伯母子岳(おばこだけ1,344メートル)に登り、約1,000メートル下って五百瀬まで歩く。
 8時に宿を発ち、1時間ほどで小さな平坦地にある萱小屋跡(写真)に着く。
 昭和初期までは人が住み旅籠があって、多くの巡礼や商人が馬で高野から米や魚を十津川に運ぶなど往来が盛んだったという。
 こんな辺鄙なところに、と驚くばかりだが、当時は川沿いには道はなく隣村に行くには峠を越えるしかなかったことがよく分かる。


 


    11時、伯母子岳山頂に到着。360度の眺望が素晴らしく、良い天気と微風に恵まれて元気を回復した。

 写真は先着していた青年にシャッターを押してもらった。
 この青年とは翌日にかけて抜きつ抜かれつで旅を共にした。
 背景になっている山々がこれから歩こうとする山々である。
 昼食休憩の後長い下り坂を下りたが、足元が半分崩れたような荒れた道が2㎞以上に渡って続く。
 途中、道路補修工事の夫婦に行き合ったが、こんな暑さでは仕事にならないとぼやいていた。
 枯れ落ち葉で覆われた下りの急坂で、油分を含む枯葉を踏み転倒してしまった。 下り坂の小石と枯葉は禁物だ。

 5時ごろに五百瀬の農家民宿「政所」に到着。
 80歳ぐらいのおばあさんが出迎えてくれ、すぐに風呂に入れてもらった。
 こちらも「津田」と同じく居間2部屋が客室になっているが、エアコンが1台なのでブチ抜きの部屋として使われている。
 当日の相客は逆コースで歩く中年のイギリス人兄弟だった。
 「政所」は外国のネットで紹介されているようで外人客が多いという。

 この兄弟は、「こんにちは」のみで「おはよう」や「おやすみ」など他の日本語は全く話せない。
 スマホをかざせば英語で翻訳されるので問題ないとのこと。
 夕食時、熊の話で盛り上がった。昨日夕方熊に出会ったが、すぐに熊が逃げ去ったという。そこで私が「小さな日本人だったら襲ってくるが、大きな外国人が2人もいたから熊のほうが驚いたのだろう」と言って大笑いした。

   8月3日(金):第4日目  
   

 8時に宿を発ち、まず比高差800メートルの三浦峠(1,140メートル)を目指す。
 左の写真の背景に霞んで見える山が三浦峠。 神納川の吊り橋を渡り廃屋の脇を通って急な坂を約1時間かけて登ると「三十丁の水」に着く。
 この辺りは水がとてもキレイで大量に湧き出ており、登山者の絶好の給水点となっている。

 12時ごろ三浦峠に到着、そのまま歩き続けて小さな起伏をいくつも超えて1時半ごろ矢倉観音堂に到着、30分ほど昼食休憩とする。
 ここからの道はかなり荒れており左右どちらかが崩れているのでロープに掴りながら慎重に下りる。途中、珍しく中年の男性と外国の青年と行き合った。
 登山者と出会ったのは、伯母子岳の青年とこの時の2人のみで、確かに夏季の旅行者はとても少ない。

   西中部落からはしばらくは県道425号線を歩く。
 平坦地で歩きやすいが直射日光に晒されるのでとても暑い。
 4時ごろ温泉宿泊施設の「昴の郷」を通り過ぎ、十津川に架けられた吊り橋を渡る。
 同時に5人までの制限があり、一人で渡ってもかなり揺れる。足元がよく見えるのであまり気持ちが良くない。

 十津川温泉の民宿「やまとや」に宿をとる。「やまとや」は釜めしが売りのレストランを兼ねた民宿で部屋数が多く、剣道の試合に来ている高校生が大勢泊まっていた。
 十津川温泉はいわゆる「美人の湯」で肌がすべすべになり、飲料にも適する良い湯だった。久しぶりにリラックスした。

 小辺路に入ってから今まで携帯がつながらなかったが、十津川では使用できるので久し振りに家内に計画どうりに歩いていることを報告した。 

  8月4日(土):第5日目
   今日は、果無(はてなし)峠(1,114メートル)を越えて熊野三山の最初の本宮大社をお参りする。

 7時半に民宿を発つ。
 昨日の吊り橋の近くまで戻り登山を開始する。
 「果無」というロマンチックな地名は小辺路の宣伝パンフレットにも利用されているが、とても厳しい山路、よくこんな所に人が住むかと思ったが、実際に歩いて納得した。
 果無山の北側斜面(歩いている側)は地下水が豊富で、あらゆるところで水が湧き出て水田もある。ところが南側斜面にはほとんど湧水が出ていない、だから畑もないし人が住んだ形跡もない。
 人の生活に如何に水が大切かを示していると思う。
 
 果無峠からの下りは、小さな上り下りの連続で道が荒れていることも昨日までと同じだった。
 所々眺望が開ける場所があり、写真は熊野川流域の本宮大社方向の景色である。高低差約1,000メートルを下って八木尾バス停に出てからは暫く国道168号線を歩き、途中から再び古道に入って本宮大社の裏側に出た。

     本宮大社は、以前は大斎原(おおゆのはら)と呼ばれる熊野川の中州にあったが、明治22年の大洪水で流されたため、現在の山上に移築された。 

 装飾、塗装のない簡素な作りで、八咫烏(やたがらす:3本脚の烏)が神の使いとしてのシンボルになっており、境内のいたるところに旗などが立てられている。

 私が長い石段を下っていくとアメリカ人らしい母娘が上ってくる。
 見たことがあるなと思ってよく見ると、先日高野山で休憩した時に挨拶した人だ。ともに喘ぎながらの歩きだったので、「Hi」と言葉を交わしただけで通り過ぎたが、こんな偶然もあるものだと思った。

 本日の泊りは川湯温泉のホテル「まつや」。国道168号線から県道311号線を1時間歩いて6時ごろに到着した。
 ホテルの脇を新宮川の支流・大塔川が流れている。とても奇麗な川で多くの家族連れが水浴びを楽しんでいる。

  8月5日(日):第6日目
     新宮市まで42キロ、歩く予定だったが連日37度の高温なので安全第一でバスを利用することにした。時間に余裕ができたので、バスを乗り継いで那智駅経由で那智大社と那智の滝に行った。

 日曜日でもあり、たくさんの観光客であふれかえっていた。落差133メートルの那智の滝は日本一だそうで、近くで見るととても迫力がある。
 いくつもの撮影ポイントがあるそうだが、青岸渡寺の三重塔を一つのフレームに収めた。

 那智駅の近くに補陀洛山寺(ふだらくさんじ)がある。平安時代から江戸時代にかけて、小さな船に閉じこもり30日分の食糧をたずさえて、生きながらにして南海の彼方にあると信じられていた観音浄土を目指すというもので、補陀洛山寺は補陀洛渡海の出発点として知られる寺である。20数回の船出があったそうで、境内の一角には、復元された渡海船が置かれていた。

 バスで新宮市に戻って、市内の民宿「高砂」に泊まる。 

   8月6日(月):7日目  
   8時に民宿を出て近くの上倉神社に行く。市街地に近い上倉山の南端に位置し、熊野の神が最初に降臨したといわれる絶壁上の巨岩「ゴトビキ岩(ヒキガエルの意味)」を御神体としている。

 五百数十段の急な石段を喘ぎ喘ぎ登り、ようやく巨岩に辿り着いた。
 地元の人にパワースポットだと知らされ、巨岩を支える様子をパチリ。
 次に、歩いて10分ほどの速玉大社に行った。参拝客もなくとても静かな佇まい。

 時間に余裕があったので新宮城址公園に行く。新宮城は熊野川の河口近くの台上に築かれ、紀州藩水野家の居城であった。

 建物は明治の廃城令で取り壊されたが、石垣はほぼ当時のままとてもきれいに保存されている。熊本城よりも規模は小さいが本丸の武者返しが見事であった。

 城からは、熊野川河口、熊野灘が良く見渡せて海上交通に重きを置いていたことが伺われた。

 昼過ぎ新宮駅から紀勢本線で、名古屋経由で帰宅した。

感想
・ テント泊から民宿に切り替えることで体力の衰えをカバーして、今年も歩き旅を実施した。
 段々をぴょんぴょんと飛び跳ねるように下りることは無理で、杖を突きながら一歩一歩確認しながらの状態で、脚力の衰えを実感した。
 終わってみて、よく無事に歩いたなぁと感慨ひとしおである。 

7日間の歩行記録
   歩数:22万歩 
   距離:162キロメートル
   消費カロリー:9,000キロカロリー

・ 現代の四国お遍路や熊野古道は、多くは自動車道路に拡幅されてしまい古来の姿はほとんど失われている。
 四国のお遍路では8~9割が舗装道路になっていたが、今回の小辺路では山中の経路がほとんどで往時の姿をとどめている。昔の人々がこの道を参詣路とし、通商などの生活路として利用していたことは、いかに脚力が優れていたか改めて認識した。

 40代から糖尿病で苦しみインシュリンを1日に4回も打っていたのが、お遍路を終えてからは朝夕の錠剤に代わった。
 その後毎年夏に1週間~10日ぐらいの歩き旅を続けていることで、いまだに悪化せずに済んでいるのだから、歩き旅は今後も続けていきたいと思う。

・ 携帯電話も通じない山中で利用した2件の民宿は、いずれも80代と思われる老婆が経営し、同居の家族は両家とも50代と思われる息子ひとりだけだった。
 他人ごとではあるが、民宿の跡を継ぐ人はないと思われ、過疎の村の実態を垣間見た気がする。