42期 徒然草
映画「杉原千畝」 山田 和夫

1 あらすじ


     杉原千畝は、満州国政府に勤務している時に、ソ連との北満州鉄道の譲渡交渉を、周到な調査活動によって日本に有利な条件で成立させた。

 ロシア語に堪能な杉原はモスクワ大使館勤務を希望していたが、その能力を警戒したソ連から『ペルソナ・ノン・グラータ(好ましからざる人物)』として入国を拒否されたため、リトアニアにある日本領事館で勤務することになり、新婚の妻を帯同して赴任した。

 1939年リトアニアのカウナスに領事館を開設した杉原は、自ら売り込んできたポーランドの元軍人などを現地職員として採用して、独ソに近い地の利を生かして活発に諜報活動を行った。

 杉原は、日本がドイツと同盟を結ぶことは対米戦争につながるとの危機感を持っていたため、ドイツ軍などの極秘情報を報告するが、日独伊三国同盟を進める在独日本大使館の大島大使は一顧だにしなかった。

 ドイツとソ連がポーランドを分割占領したため、西側への避難路を断たれたユダヤ人が迫害から逃れるため、日本の通過ビザを求めてカウナスの日本領事館へ殺到し始めた。
 杉原は緊急のビザ発行許可を本国に要請するが、規定を守るよう指示される。
 増大するユダヤ避難民に同情する杉原は、妻幸子の同意を得て遂に独自の通過ビザ発行を決心した。

 領事館を立ち退くその瞬間まで、そして列車を待つ間のホテルで、更には車中でさえも発給し続け、ユダヤ人向けに発行した「命のビザ」は約1500件で、おおよそ6000人の命が救われたといわれる。


 「命のビザ」を手に入れたユダヤ難民は、シベリア鉄道で約2週間かけて極東のウラジオストクに漸くたどり着いた。
 しかし、厳しい入国規制のためユダヤ難民は乗船できずに港に足止めされてしまう。

 この時、ハルピン学院で杉原の後輩であった根井三郎がウラジオストク総領事代理として勤務しており、杉原の意図を理解した上でユダヤ人難民の窮状に深く同情し、JTBの担当者の協力を得て難民を乗船させた。


 戦後、ある外国人が東京の外務省を訪れて「センポ スギハラ」の行方を尋ねたが「そんな人は存在しない」との回答であった。 その外国人はイスラエルの外交官で、カウナスで杉原の通過ビザで救われたニシェリであった。

 杉原を探し続けたニシェリは、ビザ発給から約30年後の1968年、念願であったモスクワ駐在員として貿易会社に勤める杉原と再会した。


2 感想

 映画の中で、体格の良いポーランド人が応募してきた際に、杉原は彼が元軍人であることを薄々知りながら、彼の「ポーランド人は日本人に感謝している」との台詞に応じて、いとも簡単に採用したことが気になったので日本とポーランドの関係を調べてみた。

 日露戦争の際にロシア軍の一員として戦い捕虜となったポーランド人は、ロシア人捕虜と一緒にすると虐待される恐れがあったため、日本軍はポーランド人を別に収容するという気配りを行った。
 そして、日露戦争で日本が勝利したことは、ポーランドにとっては宿敵・ロシアからの独立につながり、更にポーランドを国家として最初に承認したのが日本だった。
 その後もポーランドが困難に直面するたびに、日本赤十字などが救援活動に当たったことから、大の親日国になっていた。

 1939年杉原がカウナスに着任した直後に、ドイツとソ連はポーランドを分割した。
 ポーランドは、パリ次いでロンドンに亡命政府を設けて、ドイツとソ連に激しく抵抗を続けた。

 特にポーランド軍人による諜報活動は活発で、杉原は情報収集のためその組織を活用するとともに、彼らに対しては日本の公用旅券を密かに提供し、あるいは日本の外交ルートを通じて亡命政府への連絡通信に協力したほか、家族の避難を援助した。

○ 日本政府はユダヤ人を差別しなかった

 映画のポスターには「激動の第二次世界大戦下 日本政府に背き 命のヴィザを発行し続け 6000人にのぼる ユダヤ難民を救った男の 真実の物語」と書かれており、杉原千畝の功績を称える一方で、日本政府がユダヤ難民救出に否定的と受け取れる表現になっている。
 しかし、それは正しくない。杉原がビザを発行した同じ時期に、ウィーン、プラハ、ストックホルム、モスクワなど12以上の都市の日本領事館も政府の方針として、杉原ほど大量ではないがユダヤ難民へビザを発行していた。

 この時杉原は、ユダヤ難民がシベリア鉄道を利用できるよう了解を取っている。
 これは着任して間もない通訳官(正式な外交官ではない)の杉原が直接ソ連政府と行ったわけではなく、日本政府の指示でモスクワの大使館が行ったはずである。
 日本政府の了解のない通過ビザを発行しても、日本に入国できなければユダヤ難民に嘘をついたことになる。杉原がそんなことをするはずがない。
 しかも政府は杉原の功績を認めて1944年に叙勲した上、昇給も昇進もさせている。

 その背景には、1933年にドイツにナチス政権が誕生して以来大量のユダヤ人難民が発生したが、難民を受け入れる国は少なく、初めは同情的だった英米でさえ次第に排斥するようになり、1939年には英国は武力を行使して難民の入国を阻止するほどであった。
 日本は伝統的に人種差別をしなかったが、当時ドイツから「ユダヤ人排斥」を要求されていたため、ユダヤ人難民に対する方針を明確にする必要に迫られ、安江陸軍大佐などの運動もあって1939年12月政府は「人道主義のもとユダヤ人を保護する」ことを決めた。

○ 多くのユダヤ難民は上海の租界へ

 杉原が独自に発行したビザの日本滞在期間は10日間、これでは次の目的地に行くのは不可能だったため、ユダヤ教会などの要請を受けてユダヤ人に好意的だった外務大臣・松岡洋右は、滞在期間の延長を黙認した。

 当時、入国ビザなしで上陸できたのは、世界で唯一日本海軍が管理していた上海の共同租界・虹口地区だけであり、ここではユダヤ人問題専門家である海軍の犬塚大佐がユダヤ人保護に奔走していた。
 日本に上陸した難民の多くは、アメリカなどの最終目的地に出発できるまで上海に移ったため、多い時は2万人を超えるほどであった。
 太平洋戦争突入後は渡航も制限されたため困難な生活を強いられたが、虐殺と言った悲運に会うことはなかった。

 杉原がカウナスに着任するより前、ドイツをはじめ東欧でユダヤ人迫害が激しくなったため、多くのユダヤ人がシベリア経由で東方を目指すほかなくなった。
 満州国は受入れなかったためソ連との国境はユダヤ人で溢れかえり、飢えと寒さで困難を極めた。
 このとき、当時のハルピン特務機関長の樋口少将は、ユダヤ難民を受け入れて食料を与え医療処置を施したのち、上海に送って保護した。
 この時救援列車を仕立てたのが満鉄総裁の松岡洋右、樋口少将の処置を許可したのが関東軍参謀長の東条英機だった。

 
○ イスラエル政府による顕彰


 イスラエル政府は1985年杉原千畝に、「ナチス・ドイツによるホロコーストから、自らの生命の危険を冒してまでユダヤ人を守った非ユダヤ人に感謝と敬意を示す称号」として「諸国民の中の正義の人賞」を贈った。
 世界で2万人以上が称号を受けているが、日本人は杉原千畝ただ一人である。

 これとは別に、イスラエル政府は建国功労者を「黄金の碑(ゴールデン・ブック)」に刻印しているが、モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの傑出したユダヤの偉人達に混じって、上から4番目に「偉大なる人道主義者、ゼネラル・樋口」、その次に安江仙江大佐の名を刻んで、その功績を顕彰している。
 海軍の犬塚惟重大佐は記載の申し入れに対して、自分の功績ではなく「名前を載せたければ陛下の御名を書いて下さい」と固持した。

 
○ 中国によるユネスコ記憶遺産の登録申請


 日本の敗戦後、中国国民党軍がユダヤ難民が居住する地域を管理したが、1948年のイスラエル国家の建国に伴いユダヤ難民はほとんど上海から去った。
 従って、1949年に建国した現在の中国(中華人民共和国)が関与したことはなかった。

 中国は、上海にユダヤ難民が所在したことをもって「抗日戦争勝利70周年」の一環として、ユネスコ記憶遺産に申請しようとしている。
 上に述べた歴史的事実からは異なっているが、現在の中国にとっては人道主義国家を演出するためには格好のテーマなのだろう。
 イスラエルの側にもナチスドイツと同盟を結んだ日本を嫌って、大国になった中国の主張に沿うことがイスラエルの利益になると考える人もある。

 日本が何も言わなければ、これがユネスコ記憶遺産に登録され、歴史的事実になってしまう。
 一方、日本が声高に事実を説明すれば、当然かつての日本軍人の功績を強調することになり、「軍国主義復活」との非難につながる恐れがあるため、いや、それ以上に、日本人の側に、旧軍人を「悪人」と決めつけることにより「免罪符」を得たような空気があるので、残念ながら日本は、日本人はそうした主張をしないだろう。