42期 徒然草
再挑戦  オホーツク網走マラソン 米堂 征男

 ここ数年、連続して来襲する強烈な台風、地震そして集中豪雨。

 全国に散らばっている同期の皆さんの中には被災された方もいらっしゃいますが、当方は北海道の東の外れでしたので、今回の胆振東部地震では微動だにしませんでした。
 北海道全域がブラックアウトしたので停電だけは免れることが出来ませんでした。
 それでも24時間後には何とか電気だけは復旧しましたが、その後約2週間ほどスーパーの品揃えがまばらで、完全回復するには9月一杯かかっていました。

 全国あちこちで災害が発生する度に毎回大変だなーと思っていましたが、いつ何時我が身に、と言うのが日本だと思います。 ですので常に覚悟をしておかなければならないのだろうとおもいます。
 今回の24・25号台風は幸いにして雨はパラパラ程度で、風はそよ風程度でした。



 全国が台風24号で大変だった頃、私は6月の100kmマラソンの不完全燃焼を晴らそうと6月30日に行われたオホーツク網走マラソンのフルマラソンの部に参加してきました。

 同じ日に長野の松本マラソンは台風24号ため29日の日に中止が決定されたようです。
 当方の1週間前の天気予報では曇り、それが日を追うに従って雨模様に、何とか午前中は保ちそうになり、それが当日は薄曇り、暑くもなく寒くもなく、絶好のマラソン日和でした。


 7月から当日まで約500kmの走り込み(ただ走っただけですが)をして、でも60代の頃とは違って15~20km走っただけで、毎回のようにふくらはぎ、膝、腰が痛み出しました。
 そして10km前後までは何も問題がないけれど、12~3kmを過ぎる辺りからエネルギーが切れなのか、走る意欲(体力)が急になくなる状態に、ウルトラマンの赤いランプが点滅するような状態になることが度々、その原因は何だろう?

 ・加齢による体力の衰え
 ・内蔵特に消化器系の不調
 ・準備整理体操の不足
 ・根性不足
 ・栄養不足
 ・前立腺肥大の処方薬(肝機能に影響あり)のせい

 どれもこれも該当、悲しい。

 走った夜はアミノ酸不足により熟睡が出来ず。
 走らない日の夜は前立腺の問題もあり(肥大だけはなく去年の9月に癌の放射線治療を受けました)酷いときには2時間おきにトイレに行くこともありました。


 参加申し込みはネットでの締め切りが終わっていたので、ナンバーカードを前日に受け取ることで受け付けてもらいました。  8時45分スタートなので、当日遠軽からでは一寸無理で、網走に泊まることに。

 でももうホテル、旅館類はすでに満杯。ネットで探しまくり、ありました、道立のコテイジ。
 このコテイジ、遊び道具が色々そろって、なおかつ景色が素晴らしい、晴れていれば知床半島を一望できます。
 名前は「テントランド」(テントはキャンプのではなく、地名の天都山からきています)で網走監獄のすぐ近くです。
 せっかくなので近くに住む娘と孫、嫁と孫の4人、そして近所の親子、総計10人、利用料金は¥20,200(税込み)、と此処までは良かったのですが、小学生4人、保育園に行っている孫が2人、予想はしたのですが、着いたときから興奮して大騒ぎで2130に「もう遅いから寝なさい!」 今の子供にとって9時半なんて宵の口なんですね。

 それでも何とか2階に、私も息子と一緒に別室に、それから1時間ほど子供達はどったんばったん、親は楽しみの飲酒、つまみは私が寸胴で作った手羽元のポトフ、3人で一升瓶を空に、後悔しましたがアミノ酸の『グリナ』の御陰か眠れました。


 朝食は分解の早い何時もの切り餅を食べ、着替える。
 両乳首に絆創膏を貼り(これをしないと10km前後で痛くなり、20km辺りで血だらけになる)、車を運転して10分あまりで網走スポーツ・トレーニングフィールドにある参加者専用駐車場へ。

 そこからはシャトルバスでスタート地点の網走刑務所正門へ、8時30頃到着。
 所要タイム毎にグループ分け、私は5時間でEグループ。

 スタート前ゲストランナーの金哲彦さん、エリック・ワイナイナ、中嶋あゆみさんの応援の言葉。
 そして網走市長の挨拶「今回の参加者の中で最高齢者は81歳です。 ナンバーは○○○○です。見かけた方は応援の声を掛けてください!」。


 そして8時45分市長の号砲でスタート、暫くは5列でゆっくり歩く、追い越し禁止なので混乱はありません。
 正門前でゲストランナー3人の見送りをうける。橋を渡ったところで北見保護観察事務所の保護観察官に「米堂さん頑張って!」の声援を受けました。
 実は事前に保護観察官には「大会に社会を明るくする運動の襷をして参加しますので是非」と半ば強要をしたのです。
 それを貴重な休日なのに快く引き受けてくれました。感謝感謝!


 国道に出てから片側2車線を一杯に広がり、ペースが一気に上がり6分/km前半、一寸張り切りすぎかなと思い、私は抑え気味に、どんどん抜かれていきます。
 5km過ぎから激坂の始まり、15kmまでアップダウンの連続、6km付近でワイナイナの軽やかな走りで、あっという間に見えなくなりました。
 ダースベーダーの格好をして走る人、サンダルの人、裸足で走る人色々です。
 12km辺りで金さんに追いつかれました。「何時もBSのランスマを見ていますよ、是非遠軽ににも指導に来てください」とお願い、しばらく話をしながら走りました。
 能取岬で折り返してしばらく行くと約1kmのトンネル。視野が狭いのでなんとなく早く走っているような気がしました。
 後は能取湖沿いで、今までのアップダウンを思えば平坦みたいなもの。

     此処で一寸能取湖の『サンゴ草』について。

 5~6年前地元の観光協会が、観光振興のため(お金に目がくらんだか?)土地改良をしてもっとサンゴ草を増やそうとしました。

 ところが意に反して絶滅の危機に瀕しました。

 自然て微妙なものなんですね、学者を交えて元に戻るのに3年ほどかかりました。

 夏の間は緑色をしていますが、秋になると紅葉して赤くなります。

 別名アッケシソウとも言います。此処だけではなくサロマ湖にもありますが極めて小規模です。


 また能取岬は中国人が沢山訪れます。

 中国映画で若い男女が此処で・・・よく分かりません。とにかく中国人の観光名所です。

 CMにも使われそうです。
 


 ボランテアによる給水とエイド(カニの鉄砲汁、しじみ汁、バナナ、あんパン、チョコ等)それと声援で何とか30km過ぎまでたどり着きました。
 その後はヨロヨロしながら34kmの私設エイドの和牛の焼き肉を食べ、35km付近の天童市(網走市と姉妹都市を結んでいるそうです)のエイドポイントでシャインマスカットとリンゴを食べ、なんか旨いものばかり食べて走っているようですが、それどころではありません。

 ようやく国道238号線の数メートル手前の鉄道跡地へ、現在はサイクリング道路になっています。
 緩やかな上り坂、やはりここまで来ると走るだけできついので数百mを歩くことに。
 残り3kmを切ったところでスピードアップ、腰、背中(背筋)、首筋、下半身全体どこもかしこも痛い。
 約18ヘクタールのひまわり畑がある『大曲湖畔園地』がfinish地点。



 最後に網走市長とハイタッチをしてゴール。
 記念のメダルは網走刑務所の受刑者が作成した木製のものでした。
 それをJALのキャビンアテンダントが首に掛けてくれました。

 何とかかんとか5時間を切ることが出来ました。

 結果は次のようなものです。( )は今年のサロマの時のタイム。
  
  10km     1:10:05    (1:06:55)
  20km     2:16:56    (2:24:27)
  30km     3:26:31    (3:25:14)
  40km     4:37:58    (4:44:37)
  42.195km   4:51:17    (4:59:37)
  総合順位   801/1456
  種目別順位  99/263

      74歳としてマーマーかなと思います。


 100kmの時の42.195は単なる通過点で今回のように苦しいとは思いませんでした。

 5年前の洞爺マラソンの時は4時間27分でしたがやはりきつい思いをしました。
 その時は5月でしたのできっと走り込みが足りないせいかと思っていましたが、どうも違うようで、身体より先に脳みそが疲れてしまうでしょうね。


 人間は本人の気持ち次第で頑張れるのだと思いました。
 突然ですが、もしかして過労死も気の持ちようでクリア出来るのかな?
 気持ちの切り替えが出来るかどうかが分かれ目かもしれませんネ。一寸偉そうかな?


 今回参加してみて、すっかりこのコースのフアンになってしまいました。

 来年もきっとヒーヒー言いながら走っていることと思います。