42期 徒然草
夏の思い出話その2 「弁  当」 谷口 日出男


 仕事を辞め、こうして毎日が暇な年代になってまた弁当が復活した。

 週に一度か二度ほど終日参加するテニスやサッカーの練習の日である。
 最初は、ほか弁とかコンビニでの弁当で済ませていたがどうも脂ぎったものばかりで辟易となり、女房手製の弁当にしてもらっている。

 夏は、クーラーボックスに入れてあり、ヒンヤリとしたおかずもうまい。
 海苔で巻いたおにぎり二個に、卵焼きやゆうべの夕食の残り物を入れた豪華な?おかずである。
 毎度おいしい。感謝である。


  あの子にも分けてあげたいなぁ・・・



 高3の長男から小1の末っ子の長女までズラッーと6個の弁当、給食もなかった昭和の27,8年ごろおふくろさんどんなにして作ってくれていたんだろう。

 思っただけでも大変だ。麦飯とはいえご飯だけでも大変な時におかずなんて知れたもんだった。

 ゆうべの残り物がふんだんにあるわけでもなく、大概は自家製の沢庵数キレか日の丸弁当の梅干しが真ん中に載っかっているだけだった。

 もっといいおかずにしてくれとは強いて文句も言わんかった。
 何もない時代それが普通だし、弁当を持っていけるだけで幸せ者だったかもしれない。

 しかし、弁当のふたを開けた途端、あの漬けもん独特の臭いがすると慌ててふたを立て周りに拡散しないように健気な努力をしたもんだ。

 特にその臭い、真夏はご飯の蒸れと外気の暑さの相乗で強烈だった。
 当時は、到底みんなと一緒に輪になって弁当を開くような環境ではなかった。
 家が裕福でない子供は、誰もが弁当のふたを立てて周りから覗き込まれないように手で囲んで食っていた。


 そんな中、昼休みと同時に教室から消える子がいた。

 最初は、「家が近くで食べに帰っているんだろう」と思っていたが、そのうち、周りのものが "あいつ、弁当を持ってきちょらんぞ" と言い始めた。

 昼休みになると同時に教室から出て、水道の蛇口からの水で空腹を満たし、みんなが弁当を終えて出てくるのを待っていた。

 夏の暑い日、校舎の日陰でポツンとしていた彼の姿がまだどこかに残っている。

 しかし、子供心は時には、残酷なほど陰湿になる。
 遂にはそんな境遇にあることがいじめの対象となった。
 自分も貧乏なのにさらに貧乏なものをこなした。
 ワルだった俺も多分イジメ側にいたんだろう。




 悪いことしたなぁ、その子は、今はどうしているんだろうか、
 まだ覚えているかな?


 あの昼休み時間を・・・
  


(「日本一」で予告された記事のその2です。)